身体を司るもうひとりの自分
有身見、自分の体を自分と思う考えは、合っているようで合っていない。心臓の鼓動、食べ物の消化、自我に関わらず、身体は動き、生命を維持する。
人間は、身体にとってよくないことを平気でする。食べ過ぎて肥満になる。アルコールや麻薬に溺れる。ゲームに没頭し、寝食を忘れる。睡眠を削って、働く。
一方で身体は、自分のSOSや喜ぶ様を、全て自我に伝えることができない。がんが出来て進行しても、ある程度進行しないと、自我にシグナルは飛ばさない。必要な生理現象は伝えるが、それをどう捉えるかは、自我次第だ。
喉が渇いたことは伝えても、アクションは自我に委ねる。水を飲むことも、我慢することもできる。身体にとっては自我とのコミュニケーション手段が乏しく、自分で制御出来ることが限られているとしたら、身体は自我が正しく行動するよう祈るばかりであろう。
身体もモノとしての身体と、行動する主体としての身体を分けて考える。実際は目、鼻、耳、口、脳、臓器、筋肉、脂肪、骨、皮膚などがお互いにネットワークを組み、生命維持のために活動している主体とすればよい。
そのような「身体我」の様なものが、自分の外に有ると、考えることが出来る。
身体我はちょうど、アピールの下手なよく働く召使いのようなものだ。自分はその主人だといえる。召使いは雇ってくれる主人がないと生きていけない。主人も、よく働く召使なしでは生きられない。召使いは、怖い主人にあまり大きなことは言わないし、いつも黙って仕事をする。よっぽどのことがないと、主人に不平をいわない。主人である私は、召使いの言うことはあまり聞かず、召使いに逆らうような勝手なことをする。召使いに「あれやれ」「これやれ」と言いながら、仕事を召使いに一任することができない。召使いのことは眼中になく、召使いを裏切ることもある。召使いの成した仕事は、まるで自分がやったように振る舞う。
この傲慢な主人(私)は、もう少し召使いを労われば、もっと自分のためにもなるし、口下手な召使いをもっと、上手く活用することができるだろう。
自分のやっていることは、召使いのためになっているのか、単なる自分のエゴなのかを上手く判断できればよい。
単なる自分のエゴとは、「自我の暴走」と言える。一方で、召使いは、多くを必要とせず、DNAというヒトの設計図に従った、必要十分なものしか要求しない。自我の暴走を事前に察知できれば、召使いが求めるものだけを追求し、「欲のリミッター」を効かせることができるであろう。
召使いに仕事を完全に任せるのも一つのやり方だ。「寝る」というのは、身体我に寝ている間は、体の管理を完全に委ねるということであろう。「寝る」「休む」「瞑想する」「気晴らしをする」などは、「欲のリミッター」に効く行動だと思う。
とはいえ「自我の暴走」は簡単には止められない。今日も飲みすぎて、この記事を書いている自分に反省するばかりである。