過程即結果
物事を実行する時に、その過程が大事だろうか、結果が大事であろうか?
ビジネスの世界では、KPIとか結果を重んじる。売上と利益を上げて、コストを落とすには、そのような結果に立脚して活動が必要だからだ。
いくらよいと言われる活動、例えば社会貢献活動など、過程を重視しても、ビジネスの結果に結びつかないと、実行が難しかったりする。
でも長期的には、企業が社会的責任を果たし、社会に受け入れられることは、重要な活動で、結果と結びつくとも言える。
だから、企業において、結果が大事か?プロセス(過程)が大事かは、時間的な尺度や焦点を当てる存在目的によって違うということになる。
では、人生においては過程が大事か?結果が大事だろうか?
そもそも人生には「結果」があるのだろうか? 「結果」がなければ当然その「過程」もなくなる。
そもそも人生には「過程」があるのだろうか? 「過程」がなければ当然その「結果」もなくなる。
企業には利潤を追求するという存在目的があるために、KPIを規定できる。人間にはそのような存在目的はあるか? 人間は何のため生きているのか?
それは、それぞれの人間が規定するものである。共通の目的はないというのが答えだろう。
「人間は、自由の刑に処されている」とサルトルが言ったように、自分で決める自由がある一方、それは誰にも頼れない、自分で決めるべきという考えである。
しかしながらほとんどの人間は、そのように自分の生き方を自分で決めていると言い難いだろう。まずは親の考えに影響を受ける、本を読んで影響を受ける、そして学校や友人の影響を受ける、会社の同僚や上司に影響を受ける 、パートナーや家族から影響を受ける、社会規範から影響を受けるなどなど一生周りとの関係の中で、生き方を選択している。
また、サンドイッチマンで説明したように、自分自身や種としての自分からも影響を受ける。その中で生き方を勘案して生きている。
よって明確な目的や求める結果、その過程を考えることが難しくなる。また年を取るにつれて、実行能力に限界が出てくると、方向修正を余儀なくされる。自分がよかれと思ってやっていることは、自分の本当にやりたいこととずれているということはよく起こることなのである。
よって、実際のところは、人生の結果とはあるようでない、人生の過程とはあるようでないということであろう。結果も過程も無自性である。
もちろん、人生のステージによってそれは変わるから、明確な目標と達成プランがあり、それを実現する過程があっても良い。大谷翔平の人生プランみたいに、本当にそれが実現できるかもしれない。ただ大谷翔平も、フォーカスしているのは今日の自分が進歩することであり、目標達成ではないのである。
しかし全体を見て、結果も過程も無自性としたら、なにが、確実に有るのか考えてみるとよい。結果と過程を一つに考えれば、それは経験になると思う。
結果即経験
過程即経験
といえるとしたら、人生において、経験は常に積み重なってゆく。
目的から実践を考える演繹的思考から脱却して、経験重視で、経験したことを元に、現在の判断に集中する帰納的思考に変わる。その積み重ねが人生と思えば、有る、無しを超えた意味が見えるのではないか?