レフリー兼フィールドプレイヤーになる

自分自身が強いと、自分の力でどうにかしようとする。
それが苦しみにつながるから、巴投げが大事なことは書いた。
自分自身も、自分の外と考えれば、外の世界は制御できないと諦めることができる。それが、自分を客観視することであり、それを認めることである。だから、病気でも、老いてしわができても、それを認めることができる。苦を受容できるということだ。

自分を客観視することを突き詰めると、他人もモノも自分も、全て客観の世界ということだ。ということは他人にもモノにも自分自身にも、執着する必要がなくなる。自分自身は、こだわりのない、執着のない無我になるということになる。

これは苦をコントロールするのにとても役に立つ。

まず自分と他の間で対立構造を持たせる必要がない。自分は主観で他は客観であれば、自分に利があるよう、他をどうにかしたいと思うであろう。

しかし、自分も他人も自分にとって、客観であれば他人に利をもたらすことも、自分に利をもたらすことも、自分にとって同等に大事になるではないか? むしろ自分と他をひとつと考えて、それが利になるよう振る舞うに違いない。

例をあげよう。スポーツにおけるレフリーを考えればよい。もし自分がプレーヤーで、他が敵だとすれば、自分が勝つよう、他が勝たないよう振る舞うだろう。もし、自分が、プレーヤーかつレフリーであったらどうだろう。レフリーである限り、自分が一方的に利があるよう振る舞わないであろう。フェアプレイを堅持しつつも、自分は一生懸命勝つよう振る舞うであろう。

その場合、負けても、自分がレフリーでない時より、そのダメージは小さいであろう。でも勝った時は喜びが小さいとは限らない。レフリーとしての喜びが追加されるから。別にレフリーでなくても、フェアプレイをいつも心がけているプレイヤーであれば、負けても気持ちよく負けることができるであろう。それは自分自身を客観視できていることに他ならない。

そして、自分と他をある意味ひとつ、フェアープレイをする一つのチームと考えて、自分と他人を一つに考えられることになるであろう。

また自分を認め、相手を認めることができると、自分が相手に攻められていても、それは試合としてはしょうがないことであり、それが自分にとって苦しくても認めることができるし、反対に自分が相手を攻める時に、あくまでもフェアプレイを守ることにつながる。それは苦を受容して、なくそうとせずにあるまま、生きていくことを認めることになる。
「苦しい」という心の捉え方が、「嬉しい」という気持ちの裏返しであることに気づくであろう。なぜなら、レフリーという立場からは、全く苦しくも楽しくもなく中立だが、プレイヤーとしては、試合の中で苦楽が両方存在し、その両方を理解できるからである。立場によって、苦しくとも苦しくないとも思えることに気づけば、そうやって存在する苦をコントロールすることに繋がるであろう。

いいなと思ったら応援しよう!