神戸には歴史がある①

先日,友人がお子さんを授かり,お祝いのために彼の居る神戸を尋ねました.その友人と神戸の各所を回った中で,近代史関連で印象に残った場所について2点の記事を書きます.

一つ目である本記事では波止場町メリケンパーク内にある「神戸港移民船乗船記念碑」を紹介します.1908年,神戸港より「笠戸丸」が出港し,日本とブラジルとの間の移民がスタートしました.この記念碑は海を指さす子供と,海の向こうを見つめる父・母と思しき2人の,それぞれの佇まいをかたどっています.私は日本の移民政策の専門家ではないので,ぜひ下記の記事などもご参照頂けたらと思います.

上記の記事の通り,日本政府がブラジルへの移民を戦後しばらくに至るまで送り出してきたことには,近代日本の限界と苦闘がよく現れています.

富国強兵を目指した他の国々と同様,近代工業が隆興すると,みずからの土地をもたない農家の長子以外はよりよい職を求めて都市へ流入します(ロンドンでは19世紀半ばにこの現象が見られ,地域とのつながりを失った青年たちを精神的に支える必要が出ました.様々な互助団体が生まれ,その一つがYMCAです [1]).明治末期の日本の都市にはまだ重工業が未成熟であり,流入し増加する都市人口を支えきれず,慢性的な失業率の高さが問題となっていました.失業率は一定水準を超えると社会の不安定化(犯罪発生率の増加)を招く可能性 [2] があり,政府として過剰な人口にいかに対処するかが問題となっていました.他方でブラジルも1888年に奴隷解放宣言を行っており,コーヒー農場で働く労働者を必要としていました.双方の利害が一致したことで,日本からブラジルへの移民は継続的・計画的に実施されました.

このあたり,ジブリ映画の『風立ちぬ』の中で堀越二郎が独り言のように(一方でどこか他人ごとのように)「この国はどうしてこんなにも貧しいのだろう」というセリフと思いだします.国としての生き残りをかけ,国民を十分に食わせる間もない中で急速な軍国化・工業化を目指し,賄いきれない国民は外に出さなければならないほど余裕がなかった.その中で移民の方々はブラジルに到着後,言葉の問題もある中でろくな設備もない農場や開拓地に送られ,大変なご苦労をなさったと聞きます.これは後代の満蒙開拓団にも通ずるところがあります.

下記のNNNドキュメント『移民のうた 歌う旅人・松田美緒とたどる もう一つの日本の記憶』(2017年,日本テレビ)は傑作ドキュメンタリーで,このころの移民の方々のご苦労を,彼らが遺した唱を通して感じ取ることができます.この神戸港に立つ像のような父・母・子は,はたしてどのような生涯をお送りになったのでしょうか…?

私は学生時代,自治寮でブラジル移民の子孫である青年と一緒に暮らしをしていました.彼は明朗快活な人柄でしたが,寮運営に関してはなかなか意見が合わないことも多くたくさん議論しました.彼は私たちにご家族のこともよく話してくれましたが,今思えば彼のご祖母・祖父はなぜ移民をされたのか,どのようなご苦労が(彼も日系3世として)あったのか,もう少し話を聞いておけばよかったと思いながら,移民の像を見ていました.

参考文献
[1]日本YMCA同盟 歴史・沿革 https://www.ymcajapan.org/about/history/
[2] 
大竹文雄・小原美紀,失業率と犯罪発生率の関係: 時系列および都道府県別パネル分析,2010,https://www.osipp.osaka-u.ac.jp/archives/DP/2010/DP2010J007.pdf

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