T・Pぼんと鶴身俊輔,平凡と日常
※「T・Pぼん」2割,鶴身俊輔8割くらいの内容です.アニメのレビューではありません.
T・Pぼんを観終わった.最終話において主人公のぼんがタイムパトロールとして活動する中で至った境地が素晴らしい.このワンシーンを観るために,これまでの全話を観てきたのだな,と感嘆する.
「平凡はかっこいい」というのは,もしかすると私よりももっと年上の大人たちは,とっくに生活の中で気づいていることなのかもしれない.帰宅して家族が出迎えてくれることや,身近な人のちょっとした変化を感じ取ることが幸せという人は結構多いだろう.その実感は,日々の経験の中で実証されているがゆえに具体的であり,それぞれの人間の内面において「人生で大事なもの」のイメージとして堅固である.
平凡さというものは,上記のように日々の生活の中で特筆するまでもない出来事が持続することであると言える.そう考えると平凡さは日常という言葉と隣接している.日本には,日常の哲学を紡いだ哲学者がいる.その名を鶴身俊輔(1922-2015)という.
鶴身俊輔は戦前にアメリカに留学し,哲学を学んだ.クワインを師とする記号論の先駆者である.日米開戦とともに日本へ帰国することとなり,記号論を学んだ学者として,日本の中での言葉の使い方に暗澹たる思いを抱く.そこではよく意味が検討されることもなく使用される言葉が政治家や軍人の演説にちりばめられ,人々もその言葉が意味することが何であるか気にしないまま,他人へ何かを強制する場合において多用した.(例えば,「翼賛」や「鬼畜米英」という言葉など)
上記のような言葉は日常生活から遊離した概念を示す.それゆえに日常生活の中で繰り返し意味が問われ検証されてゆくことも,人々の間で具体的なイメージとして共有されることもできない.鶴見は戦後,『言葉のお守り的使用法について』という論文の中で,例えば「鬼畜米英」という言葉は,米英が憎らしいという心情をただ表しているに過ぎない「表現的命題」であるにも関わらず,あたかも真偽を検証可能な「主張的命題」のようにふるまいながら流布されたと述べている.主張的命題とは,「1+1=2」や「ダイヤモンドは何よりも硬い」などの実証可能な命題のみである.実証可能な言葉であれば,日々の生活の中で鍛えられ,概念が形成されてゆくことができる.
私は鶴身俊輔が生涯を通して主張したことは,「日常の生活の中で,自身の人生にとって大事なことは何かくりかえし確かめよう」ということではなかったかと思う.例えば言葉は概念が他者から降ってきたものを使うのではなく,自身の生活の中で何を意味する言葉なのか明確なものだけ使う.その言葉遣いは生活という行為に根付いているので,ふとした時に反射的に使用することができる.また,それぞれの人間が公的言説の中で,その根付いた言葉を使用することで,本当に日常を大切にする社会を実現できる.
ひとつ前の私の記事で,「T・Pぼん ~尊敬に足る未来人~」という記事を書いた.この記事に即してもう一度述べるならば,T・Pぼんの未来人は歴史に名を残さない,平凡な人々の命であっても,救えるものなら危険を顧みず救うことを選択した人々であると言える.未来人がそのような行動を取るに至るまでには,「日常」を重視する人々の態度があり,その日常の平凡さこそが人類の文明を存続させるために必要不可欠なのだという合意が,未来社会の中で醸成されなければならなかっただろう.そのような日常の重視,平凡さを願う気持ちこそ,現代の文明が目指すべき方向であると思われる.
T・Pぼんはタイムトラベルにおいて平凡の価値(カッコよさ)に気づいた.しかしながら,私たちはタイムトラベルをしなくとも,その平凡の価値を実感することができる.それは古い古い本を読むことだ.そこには人々の楽しかったこと,悲しかったことが余すことなく記されている.藤子・F・不二雄はとんでもない数の本を収集していたという.きっと,氏も古い本を読むことの中でタイムトラベルし,ぼんのように平凡さの価値に気づいたのではないだろうか.良い作品だった.
追記
しかし,その未来人が,最初T・Pのことを知ってしまったぼんという普通の人を,機密保持のために消そうとしたのも事実である.大義のために已むをえないという態度は,日常を大切にすることと相いれない気もするのだが…
参考文献
鶴身俊輔の哲学遍歴については下記の対談が詳しい
・鶴身俊輔,『期待と回想』,ちくま文庫