「そのままでいいよ」って、どういうこと?
ワークショップやいろんなところで「そのままでいいよ」というと、
「頑張らなくていいってことですか?」
とか
「それは甘えですよね」
という反応が返ってくることがあります。
私としては今の社会は全体的に
” 無理して周りのために犠牲する=頑張る ”という風な定義になっている気がするのでそういう意味では
「もっと甘えたらいいんとちゃいますか?」
とは思います。笑
ただですね、それは迷惑かけていいというのとはまた全然違うんですよね。
わがままとも全然違う。
今の社会は
『甘える=悪』になっている。
そもそもそれがこの問題の本質だなと思います。
全てのことに良いも悪いもありませんので、甘えることももちろん良いも悪いもありません。
本当に良くないのは『相手の感情や意見を無視して』甘えてしまうことなはず。
相手が嫌だとなった時点ですぐにやめることができるのであれば、それは迷惑にはなり得ないわけで、そうなってくるとこれは単なるコミュニケーションの話になってきます。
『甘える』側の人が相手が嫌となった時点で「今までありがとうございました!めっちゃ助かりました!」と言ってやめることができればいい。笑
そして、『甘えられる』側の人がちょっと「しんどくなってきたわ」となった時に「ごめん、しんどくなったんよ」と普通に言えたらいいのです。
コミュニケーションの話だと言ったのは、
私たちはこの『断る』というのがすごく苦手だということ。
甘えることが悪いのではなくて、
『断れない』から甘えるのがダメなことになってしまっている。
なぜそうなるのかというと、
断られる=否定された、拒絶された
そして、
意見を否定される=自分の”存在”を否定された
と取りがちだから。
つまり、私はダメなのかもとか、嫌われているんだとか、自分の部分ではなく、
”自分という存在そのものを否定された”と感じて傷ついてしまうからです。
断られることで傷ついてしまうから、今度は断る側になったときに、
『断る=存在を否定してしまう』と感じるから、傷つけたくなくて断れない。
でも、本当は違いますよね。
ただ、その物事をすることを断っただけ。
そんな単純なことなのですが、私たちは”傷ついてしまう”んです。
だから、断ることが出来なくて我慢してしまう。
我慢は怒りを産みますから、どんどん頭にくる。
頭にくるので、最終的に嫌いになって、拒絶する事になる。
『NO』を言う時には、相手のことを怒って拒絶している状態にあるわけです。
こうなると、断るもNOを言うことなので、ますます言えなくなる。
(気軽に無邪気に「いやなんだー」と言うことができなくなる)
そして、今度は逆に、相手に断らわれた時に
『我慢させた』『嫌な思いさせてしまった』『やらかしてしまった!!』『怒らせてしまったんじゃないか』
と感じるから(自分が断るときは拒絶している=誰かを傷つけているからね)すごく申し訳なくなる。すごく不安になる。
どうしてこうなったのか?
まあそれは、
『頑張ったから』
ですよね。
一人SMみたいなもんです。笑
自分で我慢しておいて、キレるという。
(よくやっちゃいますけどね!!笑)
でもそれはある程度は仕方がないこと。
だって、そういうコミュニケーションしか見てきてないのですから。
言いかえると、
『自分の本当の気持ちをないがしろにして、みんなのために頑張った』
からです。
『嫌なことを嫌』と言わなかった
からです。
そして「そのままでいいんだ」というのは、『こういう頑張りをやめてこうね』ということなのです。
それでも『やっぱりそれってわがままだよね』そう思う人はいると思います。
でも本当にそうでしょうか?
頑張って犠牲して、自分を数に入れないで、頭にきたり、怒ったりして、誰かを攻撃したり、拒絶したりって、最終的に誰かのしあわせにつながりますか?
自分も含めた上で、みんなを、本当にみんなを、しあわせに大切にできているのでしょうか。
私は『みんなのために』という傲慢って、あると思います。
だって、自分も誰かにとっての”みんな”だから。
自分のことを大切に思ってくれる人は、”この自分に”しあわせになってほしいからです。
みんなのために自分をないがしろにするということは、誰かを不幸せにするということ。
それってすごい傲慢ですよね?
そして、私たちもまた、私たちの大切な人がその人自身をないがしろにしていたら、しあわせになれませんよね。
むしろ大切な人が苦しんでいるのに、自分がしあわせになってしまったら、後ろめたかったり申し訳なく思ったりします。
そんな思い、大切な人にさせたいですか?
今までの、『みんなのために』ではなく、そこに『自分も数に入れる』
『自分も、みんなもしあわせになるためにはどうしたらいいのか』いう視点で動く。これが大切なのです。
『そのままでいいよ』
これは”自分だけ”が”そのままでいいよ”ということではありません。
自分がそのままでいいということは、
”相手が”そのままであることも受け入れるということ。
自分の意に沿わなくても、納得がいかなくても、理解できなくても、
相手のことを”そのまま尊重する”ということ。
これは、『自分だけが我慢すればいい』というある意味楽な道とは全然違って、とてもとても難しいこと。
ジャッジをしない、ジャッジを乗り越える、自分の内側にあることは全部自分のものとして、責任を取る。
感情的な成熟さが必要になってきます。
真正面から向き合うことが必要とされます。
逃げないことが求められます。
対立を超えて許し、受け入れ、つながり、認め、愛していくということだから。
そして、そのために、自分で自分をしあわせにする必要があるから。
(これは今の日本ではこのブログに書いてある通りともすれば”わがまま”だと言われてしまいますしね。笑)
対立では誰もしあわせにならない。
もしくは、誰かがしあわせにならない。
そうではなく、『みんなでしあわせになる』ということ。
これには、自分が頑張って我慢するという選択をし続けていたら、叶わないのです。