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社会の中の息苦しさを共有する--Tetsuya Ishida: Self-Portrait of Other

コロナウイルスがアメリカ国内で広がるまだ少し前だった2019年の12月頃、大学の友人に誘われてシカゴの中心街から北へ行った場所にあるWrightwood 659で開催された石田徹也氏の作品展覧会、Self-Portrait of Otherを見に行った。この展覧会が開かれたWrightwood 659は、元々は居住空間があった4-5階建てほどのアパートメントだったが、2018年に建築家の安藤忠雄氏によって、内装が住居空間から展示空間へと作り替えられた。この場所では主に、建築関係の作品や、社会の問題を明らかにすることや解決を目指すことを目的としたソーシャルエンゲージアート作品が展示されている。

Wrightwood 659の外装と内装画像3出典:Inside Wrightwood 659, a New Home for Art and Architecture, WTTW, https://news.wttw.com/2018/10/16/inside-wrightwood-659-new-home-art-and-architecture


Self-Portrait of Otherで展示されていた石田氏の作品の多くでは、洗面台、車、ゴミ箱などの日常生活で目にするものと人間の身体が合体したものが描かれていた。そのような非現実的なものと、現在の日本社会という現実を組み合わせて、「現代の日本を生きる人々の孤独や不安」を描き出している。

「自己決定」(1999年)
画像1出典:Tetsuya Ishida: Self-Portrait of Other Oct 3–Dec 14, 2019, WRIGHTWOOD 659, https://wrightwood659.org/exhibitions/tetsuya-ishida-self-portrait-of-other/

私たち人間は昔から、「形のないもの」をどうにかして自分たちが理解できる媒体に書き換え、受け入れていこうとする傾向にあると思う。例えば昔の人は、自分たちの生活を脅かす、その時代では説明できなかった自然現象や疫病に怯えて暮らしていた。しかし、それらに神や悪魔などの人間のような容姿を与え、絵や彫刻などを用いて形を作り、物理的に見て向き合えるものを作り出すことで、説明のつかないものに対する恐怖や不安などと対峙し、そのような感情を受け入れて乗り越えることを可能にした。石田氏も同じように、現代の日本を生きる人々の孤独や不安という「形のないもの」を絵画という人々が認識できる媒体に書き換えて、鑑賞者が向き合うことを可能にしているように思える。実際、この展覧会は私にとってまさにそんな感じのものだった。自分が日本に住んでいたときに感じていた実体が無かったためにどうしようもできなかったもの、例えば、漠然とした将来への不安や、日本社会全体的になんとなく根付いている性別や職業に対するステレオタイプな考え方から感じていた閉塞感などが、石田氏の作品によって見える化され、なんだかとてもスッキリした。かつて感じていた不安や閉塞感などを認めて受け入れることができたんだと思う。石田氏の作品に描かれている人物は自分ではないはずなのに、自分が感じていた息苦しさがそっくりそのままキャンバスに描き出されているようであった。まさにSelf-Portrait of Other、他人の自画像である。

私がそのように感じ取ることができたのは、長年日本のコミュニティで暮らしてきたからだと考える。では、彼の作品がアメリカで展示された時に、日本人ではない人や、個人ではなく集団を大切にするコミュニティ形態にあまり馴染みのない人は、彼の描き出す「日本の社会で生きる人々の孤独や不安」をどのように感じ取るのだろうか?属しているコミュニティやバックグラウンドが異なっても、作品からそれらの感情を読み取ったり受け取ることは可能なのか?実際に石田氏の絵を見たアメリカで暮らす友人たちに、どのように作品を解釈したのか、何を感じ取ったのかについて聞いたことと、彼らがどうしてそう感じたのかを個人的に考察したものを展示されていた作品とともに書いてみたいと思う。

「めばえ」(1998年)画像1出典:Tetsuya Ishida: Self-Portrait of Other Oct 3–Dec 14, 2019, WRIGHTWOOD 659, https://wrightwood659.org/exhibitions/tetsuya-ishida-self-portrait-of-other/

この作品では、教室とは、退屈な知識の工場のようなものである。学校の制服さえもビジネススーツのようで、学校とは仕事のための準備に過ぎない。顕微鏡に融合した人物に見られるように、学校とは学生を社会で働くための機械にするための場所だという考えを強調しているように感じ取れる。アメリカで育った大学の友人がこの作品を見たときに、「描かれている人物の表情から将来に対する希望を見てとれないので、彼らがこれから先どこへ行くのかわからず不安に駆られた。もし自分に明確な意思がなかったら、自分もこのように何か明確な目的もなく、まるで流れ作業のように勉強をするためだけの機械になってしまうのだろうか...」と話していた。彼女の解釈を聞いた時に、背後にはもしかしたら日本とアメリカの教育システムの違いがあるのかもしれないと考えた。アメリカの高校では、卒業までに履修しなくてはいけない必修科目のほかに、好きなクラスや興味のあることを学べるクラスを選び、自分だけのスケジュールを組むことができる。中には高校で工学や看護学などの様々な分野の授業を選択することで自分の興味を模索する生徒もいれば、既にやりたいことが決まっているため、大学に向けてその分野に関連するクラスでスケジュールを埋める生徒もいる。どのような授業をどの学年で取っていくのかを高校4年間(アメリカの高校は4年制)を通して自分で計画しなくてはならないため、そこに主体性が生まれる。学校の授業だけでも様々な選択肢があるから、その分個人が尊重される。一方で日本の多くの高校では、学校が制服や校則などわかりやすく集団をまとめるものを用いて全体の調和を大切にする。授業も一年を通して同じクラスメイトとクラス単位で同じものを履修するため、アメリカの高校のように必ずしも個人が興味のあることを学べるわけではない。石田氏がこの作品で表現しているように、日本の学校が学生を社会で働くための機械にする場所であるならば、アメリカの学校は社会に出る前に自分の興味を模索する機会を与える場所である。この作品の解釈を聞かせてくれた友人は、主体性を求められた個人重視のコミュニティで育ったから、「めばえ」の中で皆が同じ制服を着て、機械のようにひたすら勉強をすることに違和感を見つけたのかもしれない。また、勉強をするという行為が、好奇心の存在しない知識工場のような機械的作業になってしまうことで、自分の興味や生きがいを見つけ出せず、作品の色調と似たような暗くどんよりとした未来になってしまうのではないかと考えると不安や焦燥感を感じたようだ。

「無題」 (1997年)
無題
出典:Self-portrait of Other, Museo Reina Sofía. https://www.museoreinasofia.es/en/publicaciones/tetsuya-ishida 

様々な種類のお菓子が並ぶ商品棚の中で、オー・ザックが陳列していた場所に人が頭から突っ込んでいる。周りにはおさつスナックやカールやポッキーという他の選択肢もあるのにも関わらず、それに見向きもせずにオー・ザックだけを選んでいるのは、かつて存在していた定年まで同じ会社に貢献する終身雇用制度や、日本の社会の中で一般化された義務教育を終えた後の進路である「高校→大学→就職」を表現しているように見える。この作品を見て別の友人は、「周りに多様な選択肢が用意されているのに、上半身全てが棚の中に入り込んでしまっているのを見ると、長い間一つのことだけに時間を費やしてきたことがうかがえる。力なく伸びきっている四肢を見ると、他の選択肢を持たずに一つのことにだけに身を削り続けることは実は心身によくないと警告されているように感じ、作品に自己を投影することで将来に対する悲観を味わっていた。この絵の中に描かれている人を見ながら、いつか自分が社会に出たときは状況に応じてかぶる帽子を複数持っておきたいと考えていた。」この話を聞いた際に、私がアメリカの高校に通っていた時に仲の良かった医用生体工学に興味のあるの友人が、なぜか陶芸のクラスを取っていたことを思い出した。その友人は既に進路が決まっていたが、特定の分野のことを勉強し続けていると周りが見えなくなってきたり、心身を疲弊してきてしまうので、リフレッシュも兼ねて陶芸のクラスを選択していると教えてくれた。当時そう言われて、なるほど、ガスの抜き方がうまいな〜とちょっと感心してしまった。アメリカで働く知り合いによると、アメリカで働く人の傾向として、複数の職業を同時進行していたり、より良い待遇を求めて転職をすることが多々あるようだ。ひとつのことが難しくなっても、いくつかの選択肢を常に持ち合わせることで逃げる道を用意し、自分を破滅に追い込む可能性を減らすのかもしれない。

何に対して不安を感じて、何を孤独と捉えるのかは育ってきた文化や個人によって違うが、展示されていた作品の総括的なテーマである「現代の日本を生きる人々が抱えている孤独や不安」は見る側に伝わっていた。私のように他人の自画像を見ながらも自分の自画像として作品のテーマを感じとっていたというよりは、他人の自画像をそのまま他人の自画像(日本で生きる人々の自画像)として客観視しながら石田氏の作品のテーマを受け取っていたように感じる。客観的とはいえ、それを可能にしたのは絵の中に登場する無表情で希望や明るさを感じ取ることのできない人間の表情、観衆と交わることなく遠くを見ている虚な目、薄暗い色調で構成された画面が、孤独や不安などのテーマをほのめかすように使われていたからだと考える。表情や色や雰囲気から感じ取るものは文化や民族に関係なく似ているのかもしれない。いや、そもそも孤独や不安などのコミュニティで生活しているからこそ感じる息苦しさや生きにくさは、文化や民族に関わらず多くの人にとって身近なテーマだ。だから共感したり、理解できたのかもしれない。夏目漱石氏の草枕の冒頭部分にこんなことが書かれている:

「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容くつろげて、束つかの間まの命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするが故に尊い。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。」
引用:夏目漱石 (1906). 草枕 新小説

ここで書かれているように、人々の心がこの世の住みにくさを作っているのであれば、その心を肯定する人間が必要で、それが芸術家なのかもしれない。Self-Portrait of Otherでは、石田氏は日本の社会で生きる人々が抱える不安や孤独などの煩いを絵画という目で見て認識できるものを用いて表現した。そして鑑賞者である私たちは、石田氏のおかげで形を得た、今までどうすることもできなかった煩いと向き合ったり、吟味できるようになる。芸術は、人々の心の中にある「形のないもの」を理解できる形にかき換えて共有することで、息苦しい空間の中で生きる人々の心を助けたり癒すことを可能にするのかもしれない。

紗央


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