役に立てない、役立たず、というきもち
今からの話は、おもにSNSのことを話しています。
「これは有益?」という自問自答
twitterをしていて、いつからだろう、
「有益」という言葉をよく見るようになった。
”発信をするのなら有益に”
”フォロワーが欲しいのなら有益に”
だんだん苦しくなっていった。
描きたくて描いていたイラストも、
「これは有益?」と自問自答するほど、
まるでゴミみたいに思えた。
役に立たなければという脅迫
自分のnoteだけで見てみると、
一番最近書いた記事が、2019年の8月だから、半年くらい間が空いた。
この間、3歩進んで2歩下がるの調子で、
持ち上がったと思っては調子を落としていた。
そんな中で、少しずつ、
「私にとって、”役に立つ”ってどんなバランスでいけばいいのかな」
ということが見えてきた。
「役に立つ」という言葉は、生きている限り、私たちについて回る。
一時期は、「役に立つ」とか「有益」とかいう言葉は、呪いみたいだった。
生きてる限り、誰かの役に立たなければならない。
役に立たない人間は、生きている価値がない。
そう脅されているような感覚がした。
だけど今は脅される感覚が少しずつ減っている。
今も少し、とらわれるときも、あるけど。
役に立とうとしても、役に立てないこと
以前の自分は、そこの線引きが自分ではできなかった。
以前は、質問箱やDMでお悩みがきたら、全力で答えようとした。
答えようとしたけど、頭がカーッと熱くなって、おなかがモヤモヤして、気分がイライラした。
焦った。
役に立てそうな言葉が、考えても考えても、まとまらなかった。
回答をしても、不満を持たれて、返信が来なくなったりすることが多かった。
今は、「ごめんなさい、今の私には力が不足しています。ぜひ専門家を頼って。」と言えそうだ。
「私にとって、これはキャパオーバーではないか?」という視点が、
以前より浮かぶようになったのかもしれない。
質問箱やDMのお悩みが来たって、その時の私のキャパは超えていたのだ。
自分のできるぶんしか、できないよ
役に立ちたくても、有益でありたくても、
キャパオーバーでつぶれたら元も子もない。
私は誰も助ける事なんてできない。
すっごく役に立つ、ということもできない。
でも、それでいいと思ってる。
したいことをして、
それが勝手に
相手の役に立ったり、
反対にバカにされたりする、
それだけの話だ。
有益とか役に立つって、
「自分が当たり前みたいに持ってるものを、
いつのまにか放出してて、
いつのまにか相手がそれを活用してた」
っていうだけなのかなって思う。
もちろん、もっと違うパターンもたくさんあるんだろうけど
今の私はあまりエネルギーもバイタリティーも無いから
このくらいゆるいのがちょうどいいや
って感じる。
いつも思うけど、
言葉の具体的な内容って人によって違うよ。
言葉は、自分の状況にあわせて、具体的な内容をかえていいよ。
「がんばる」が「起き上がること」である人もいれば
「営業目標を達成すること」である」人もいるように。
「役に立つ」だって人それぞれなんだ。
わたしは、じぶんのできるぶんしかできない。
そうして勝手に役に立ったりしたい。
今日も読んでいただき、ありがとうございました。
ゆっくり休めますように。