無人島読書 vol.3 ~ 自分の中に毒を持て;岡本太郎著 ~
おそらく、いや、間違いなく。
今までの人生で一番に影響を受けた本だろう。
初めて手にしたのは、大学を留年して下宿を追い出されて大阪のゲストハウスに住み込みで働いていた頃か。
今でも覚えている。心斎橋の本屋でこの本を手にとって、最初の1ページ。
その1ページがもう。ね。
あぁきっとこの1ページがこの本の全てなんだなと感じて。
開幕初手で元気玉をぶち込まれた衝撃だった。
いまでもその1ページだけを読んでは目を閉じて、その言葉を反芻したりする。
この本がきっかけで岡本太郎氏の大ファンになり、東京へ行くときには必ず渋谷駅の「明日の神話」を見て、それから青山にある岡本太郎記念館へ行く。
そして不思議な縁もあるようで、以前に住んでいた福岡県うきは市の温泉で、岡本太郎氏に師事していたという年配の男性にお会いしたこともある。
その方は東京オリンピックの時節に岡本太郎氏に師事し、その作品創作なども手伝っていたらしい。現在は記念館になっている青山のアトリエにも、当時、足しげく通っていたそうだ。
まさかそのような人と出会えるとは思っていなかったから、思わず感激して、互いに全裸のままで握手をしてもらったことを覚えている。
ー
今日、紹介するのは、そんな、ぼくが心から尊敬する岡本太郎氏の本だ。
副題には「あなたは"常識人間"を捨てられるか」とあるが、ぼくは決して、岡本太郎氏が非常識な方だったとは思っていない。
むしろ、誰もがこれぐらいでいいかと足を踏み出せずにいるところを、ひとり、全身をブチあげて飛び込んでいくような。
誰よりも、生命や人生に向き合って戦っていた方だと思っている。
どのページをひらいても、強烈な問いをコチラに突きつけてくる。
それでいいのか?狂え、もっと狂え。殺してみろ、自分を殺し続けるんだ。それが生きるってことなんだと。
もう一種の呪いのように、コチラへ強烈なエネルギーをぶつけてくる。
この、生きることの容易くなった現代社会において、本当に生きるとは?という強烈な問いを、ぼくたちに突きつけてくれる。
ー
先に述べた、この本の最初の1ページを紹介したい。
人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
ー 岡本太郎著:自分の中に毒を持て p.11
「今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい」。
これだよ、これ。この一言に、どれだけぼくが救われてきたか。
言わずもがな、積み重ねも大事だ。
積み重ねていかないと見えない景色、辿り着けない場所があるのは事実だ。
だが、それでかえって、いのちの自在さを失うことはいけないと、彼は警鐘を鳴らしてくれているのだとぼくは思っている。
たしかに積み重ねが多ければ多いほど、身動きは取りづらくなり、それを蹴飛ばすときに必要な力は大変なものになるだろう。だが、それを蹴飛ばした時の爆発、いのちの輝きも、また同時に大きくなるはずだ。
それまで積み上げてきたものを捨てるのは怖い。不安になる。
ぼくはいままで、住む場所も仕事もなんども変えてきて、それでもまだ慣れることはない。
今年の夏、前職のレストランを辞めてから、無人島100日間単独生活を敢行したときもそうだった。
無人島生活が始まって2週間が経った頃だったか、初日から雨が延々とふり続き、まだ一度も太陽を見ていない。そんなときだった。
定期的な生存確認連絡をするために携帯に電源を入れた際に、facebookも少し覗いてしまった。
するとそこには、前職のお店で催されたイベントの写真が並んでいた。
みんなが笑顔で、楽しそうに横にならんで写真に写っている。馴染みのお客さんの顔も見える。お酒を片手に、顔を赤らめて、みんな本当に楽しそうだった。
「あぁ、ぼくはここにみんなと一緒にならんで、その笑顔のひとつになれる未来もあったというのに。その未来を自ら捨ててしまったんだな。こんな島で、ひとりで。あそこに残っていれば、誰かの役に立てることもできたろうに。こんなところで、誰の役にも立つことなく、ひとりで時間を無駄にしているんだ」。
じっと写真を眺めながら、そう後悔して、思わず、涙を流してしまった。
ー
ぼくは、選べたはずの未来を、いままでたくさん捨ててきた。
その度に、後悔の念に押しつぶされそうになって、それが理由で泣いたことも一度や二度じゃない。というか、ほぼ毎回のように泣いている。
だって不安だもん。新しい何かをはじめるって。
それまで積み重ねてきたことを捨てて、やったことがない、先の見えないことをしていくのだから、不安で不安でたまらない。
そこにさっきみたいな写真なんて見せられたら、もう堪えきれない。
なにやってんだろうな、俺。って、いっつも言ってる。毎回、後悔してる。
でも、でも。
そうなったときに、毎回、岡本太郎先生の言葉に救われる。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
確かに、ぼくは選べたはずのたくさんの未来を捨ててきた。
けれども、その度に、新しい運命もひらいてきた。
到底味わえないような悔しさや歓びといった感情や、世界のひろがるような経験も、たくさんの未来を捨ててきたからこそ、手にしてきたものがたくさんある。
それは、自信を持っていえる。岡本太郎先生の言葉は嘘じゃない。
別に、この生き方が正解だとは思っていない。
けれど、ぼくはこれからもこの生き方をしていってみようと思っている。
そういう人間が少しくらいはいても良いんじゃないかな、とも思ってるから。
ー
無人島で、ひとり後悔の涙を流したとき、ひとつの問いが頭に浮かんだ。
誰のなんの役にも立たず、それ自体にはなんの意味もないと分かっていたのに、それなのになんでぼくは無人島に来たのだろうか。と。
意味のない、無価値な、無駄なこと。
…ほんとうに?ほんとうにそうなんだろうか。
たしかに一見、無意味にみえる。誰の役にも立たないのだから。
だが、だからこそぼくは心を惹かれ、無人島に来たんじゃないだろうか。
一見して、無意味にみえること、無駄だと言って誰しもがやらないであろうこと。でも、だからこそ、やる意味がある。
屁理屈かもしれないが、そう考えることはできないだろうか。
突き当たりの曲がり角。もしみんなが右に曲がれば、そこには右に曲がった先の未来しかない。だが、たったひとりでも左に曲がって、その先にある未来をみることができたなら、その景色を伝えることができたなら。
それは世界にひろがりをもたらすことにならないだろうか。
そうか。
みんなが右を選ぶなら、ぼくは左を選ぶ。
思えば、いまに始まったことじゃない。昔から天邪鬼だった。
それを通すよって、それだけのことだったのかもしれない。
だとすれば。だ。
ぼくがこの社会にできることは、みんなが選ばなかった未来を、敢えて選んで、その先でみた景色を共有することじゃないだろうか。
そうすれば、この世界のひろがりに寄与することができるんじゃないだろうか。
そんな想いが、涙のあとに溢れてきた。
ー
思い返してみれば、そうだ。ぼくはいまの社会に閉塞感を感じていた。
効率だ、費用対効果だ、数値の成果だ、意味がある、価値がある、無駄がない、誰も傷つけない、正しい、正義の、優しい世界。
うるせぇ、うるせぇこのやろうと。
誰もかれもがそんなことばっか求めやがって、そんなことばっか言い合っているから、いまの世の中は閉塞感でいっぱいなんだよ。
知ってるか、最近の若い子たち。俺の世代もそうか?
無気力にみえたり、好きなものを好きって言えない奴がアホほどいるんだ。
なにかを好きになって、時間やお金を使ったり、脇目も振らずに突っ走ったり。
それって他人から見たら、大概が無駄にみえることばかりなんだよ。
でも当人にとっては価値があることだったりするんだよ。
でもそれが、いまの世の中じゃ、誰かが口を出してくるんだ。
時間がもったいない、無駄だ、意味がない、やめとけって。
そうやって全てのことに価値だとか意味だとかを求めるようになって、時間を無駄にしてしまうのが怖くなって、新しいことになんにも挑戦できなくなって、それでいつかこう思うんだ。
あれ、俺って生きてる意味があるのかなって。なんのために生きてるのかなって。
意味だとか、価値だとか、そんなもんどーでもいいんだよ。
どうでもいいんだよ。意味なんかなくたっていいんだよ。それでもいいんだよ。
いのちの爆発、輝き、刹那的な、パッとして消えていく、何も残らない、意味のない、価値のない、祭り。
それが、いま、必要なんだ。
この閉塞感のなかに、ただ、いのちを爆発させる、そういう無意味な祭りが必要とされている。
ぼくは、そんな気がしている。
誰もが無意味や無価値に振り向かないなら、すべてに意味や価値を求めるようならば。
まずは、ぼくが、無意味や無価値に全力ダッシュしよう。
みんなが選ばなかった、左に曲がった先の景色を見にいこう。
右に曲がったみんな。信頼しているよ。
みんなが右に曲がってくれるから、ぼくは安心して背中を預けて、左の道を進むことができる。役割分担だ。
この社会に生きるひとりとして、この社会を愛しているからこそ、みんなとともに生きたいからこそ、ぼくは左へ曲がることにする。
ー
拝啓、岡本太郎大先生。
あなたの言葉はまるで呪いですね。
左へ曲がった先になにがあるのかは知りませんが、きっと退屈はしないことでしょう。
結局、社会にとってなんの役にも立てなかったり、迷惑をかけてしまったり、ひとつも世界のひろがりを伝えられなかったり、そんな最期が待ってたり…するんですかね。
いや、いまからそんな泣き言をいってちゃダメですよね。
それでもいいんだと、いのちをぶつけていかなきゃいけないんですよね。
正直、右に曲がって満足して一生を終えられるなら、そうしたいところです。
でも、なぜだかそうして満足そうに死んでいく自分の姿が、1mmも想像できないんです。
だからやっぱり、左に曲がるしかないんです。
拗らせてるなって自分でも思うんですけど。
だからやっぱり、先生の言葉は呪いですよね。
敬具
ー
i hope our life is worth living.
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