短編小説「神の恩寵を求めてー哲学者・シモーヌ・ヴェイユの人生」
春の訪れを喜ぶように、小鳥たちはさえずる。花々は、懸命に日の光に向かって咲き誇る。今日のパリはなんて心地よい日なのかしら。恍惚に近い幸福感に包まれたのは束の間、私の横を一人の男が通り過ぎる。これまで、柔和で優しい空気感が、少しピンと張り詰め、ワントーン辺りが明るくなった。
小鳥たちは、彼のもとに集い、歓喜を歌う。その姿に、私は止めどない感動と幸福に満たされた。「神」がいる。「神」が目の前にいる。
朝の気配とともに、恍惚感が消えていく。ため息をつくように、言葉が漏れる。
「夢――」
自分から志願して、ブルーカラー(※肉体労働)の仕事に従事したのに、自らの身体の弱さのせいで、満足には働くことはできなかった。ルノーの工場での仕事も、体調を崩し、精神を病みやめたばかり。労働者階級を理解しようと飛び出したものの、本当に理解できたのかは疑問が残る。窓から望む海を見ながら、物思いにふけっていた。
「シモーヌ、体調はどうですか」
「昨日は、寝ることができたので大丈夫です」
「そう。下に朝食あるけど、食べられそう?」
「ええ。下に行くわ」
私の身体を気遣う母の背中に、少し罪悪感を感じた。食卓へと向かうと、新聞を読みながら父は私を待っていた。新聞の見出しは、ナチス・ドイツがニュンベルク法案を可決し、ユダヤ人の市民権の剥奪についてである。ヴェイユ家は、ユダヤ系ではあったが、父が開業医でもあったことも関係してか、これといって信仰のようなものは存在していない。いや、信仰心がなかったというよりも、「目に見えるものしか信じていない」と表現した方が正しいかもしれない。
「とうとう、ユダヤ人の市民権が剥奪されたか。これから、世界は混沌に向かうな」
「そうね。ユダヤ人が皆、信仰があるわけでもないのにね」
母と父の会話に、言葉にならない感情が心に浮かぶ。ユダヤの同胞たちへの配慮も、そして、同情もそこにはない。何かが壊れるそんな予感だけがした。
工場勤めで疲弊した身体を癒すため、両親と訪れた漁師村に滞在してもう十日になる。やっと身体が動くようになり、この村を散策してみようと外へと出かけた。幼少の頃から、パリで育った私にとって、海は特別な意味を持っている。父の長期休暇の旅行くらいでしか、海を見ることはできなかった。それでも、年一度の海との出会いは、窮屈な世界から私を解放してくれるようだった。
村には白壁の家が立ち並ぶ。お世辞にも、豊かとは言えない村で、惨めな健康状態の私を見ているかの気分になった。しばらく歩いていると、海と砂浜が見える広場に出た。
広場の階段に腰掛け、大西洋に日が沈んでいくのをじっと眺めながら、これまでの人生を回顧することにしよう。
兄のアンドレは、数学の天才で、そんな兄に劣等感を感じていた。生まれつき身体が弱かったために、リセ・フェヌロンでは思うように勉強ができず、自分にどうしても自信が持てなかった。ますます力をつけ、天才性を発揮していく兄、それを誇りに思う両親。
高等師範学校へ飛び級で入学でき、貴人アランとの出会いもあった。哲学者・アランの「肉体労働には精神性がある。労働が、真に精神を自由にする」という考え方に惹かれ、貪るように哲学を勉強した。自らが教える立場にたっても、その信念への憧れが消えず、工場へ飛び込んでみたりもした。それが、このザマではないか。男に生まれていれば、この弱い身体に打ち勝つことができたかも知れない。女で生まれている事実自体が受けいれたくないことでもあった。しかし、いまの身体は、この村の建物のように疲弊している。
私の人生を振り返れば振りかえるほどに、夕日が沈み辺りが暗くなる如く自己信頼が消えていく。耳を澄ますと遠い暗闇の方から、賛美歌が聞こえてきた。
女性が列をなし、それぞれ蝋燭を持って賛美歌を歌いながら歩いている。老夫婦が、不思議そうに眺めている私を見かねて近寄ってきた。
「これは、村の守護聖人を讃えるお祭りなんだ。漁師の奥さんが集まって、一つ一つの船に立ち寄り、夫の安全を祈願しているのさ」
漁師の妻たちが懸命に祈る姿を見て、突如として確信したことがあった。癒すことができない苦しみ、深い悲しみに限りなく寄り添う宗教がキリスト教であるということ。劣等感に苛まれ、どうしようもない敗北感を感じている私自身も救済されるものの一人なのかも知れない。これまで、信仰とは縁遠い家庭で育った私にとって、大きな衝撃的な出来事であった。
ポルトガルに滞在して一ヶ月が過ぎようとする九月の終わり頃、私は一旦パリに戻り、教師としての赴任先であるブールジュに母とともに向かった。大聖堂がある小さな地方の町で、パリから車で三時間ほどのところに位置していた。今回のリセ(後期中等教育機関)では、同僚の先生たちも寛大な方が多く、私の激しい性格となんとか付き合ってくれる人が多かった。
ブールジュの学校で担当したのは、一二人の学生たちだった。親しみを込めて私のことを「シモーヌ先生」と呼んでくれる学生たちが愛らしくも思えた。
私が授業の中で教えたのは、主に二つある。一つは、感覚、形、色を描写するだけの書く力を鍛えた。そして、多くの小説や詩の読解。ホメロス、ラシーヌから始まり、ゲーテ、サン・テグジュペリ、トルストイなど多くの小説を教えた。
ある日、いつものように小説の読解の授業を始める。題材は、トルストイの『復活』。ネフリュードフ公爵が、自らが犯した女囚カチューシャが、無実の罪でシベリアに送られるのを見て、過去の自分とカチューシャを救おうとするトルストイの晩年の作品である。
『復活』の授業を進めていると、一人の学生が疑問を私に投げかけた。
「人間が犯した罪というものは、本当に贖い切れるものなのでしょうか。そもそも、救いとはなんであるのでしょうか。魂は、死後残っているのでしょうか」
彼女の素朴な疑問に胸が刺さる思いだった。私の心情とは裏腹に、教室内は笑いが起きる。「救いがないんだったら、信じていても意味がないじゃないか」と、どこからともなく聞こえてくるヤジの声。恥ずかしそうに、萎縮している彼女を見て、何か喋らなければと思った。
「人間は、自らの罪の大きさを知っているからこそ、謙虚に生きることができるの」
口に出すのが恥ずかしいほど、浅はかな答えだ。私の心の中で、解決がついていないのにも関わらず、私は何を言っているのか。良心の呵責というべきものが、これを機に長く尾を引くことになる。
一九三六年五月、レオン・ブルムが圧倒的な勝利を収め、フランスで初めての社会主義政権が樹立した。労働者の身分が保証されるはずの社会主義に若い頃は、憧れを抱いた。しかし、ブルムの国営化計画は、国家権をより強力なものとし、労働者の自由が侵害されていく様が容易に想像できた。世界情勢が激変するたび、私の精神状態は厳しくなっていった。身体の調子次第で、大きく自分の活動に支障をきたしてしまう。それこそが、自分の弱さ、怠惰であると感じた。
私の精神状態に拍車をかけて、六月に二百万人の労働者が参加するゼネストが起きた。これまで、労働者の地位を憂い、労働者に寄り添おうと踏ん張ってきた私にとって、嬉しく、勇気付けられる出来事であった。そして、俗にいうマティニョン協定が制定され、これまで劣悪な環境下にあった労働環境が改善される内容が盛り込まれた。 例えば、労働時間を週四〇時間とし、集団交渉権を認め、大幅な賃金上げ、さらには年に二週間ほどの有給休暇を保証されたのである。私は、居ても立っても居られなくなり、かつて働いて居たルノーの工場へ向かった。かつての同僚は、笑顔で私を迎え入れてくれて、一緒に涙してこの成果に喜ぶことができた。人間の尊厳を、一介の労働者も保証されることになったことがすごく嬉しかった。
そうこうするうちに、リセの卒業式の時期が迫っていた。私の生徒は、一二人中九人が大学の入学資格を獲得してくれた。誇らしく思うのと同時に、この子たちに精神性という何かを残せてやれたのかという後悔も残った。
七月にスペインで内戦が勃発した。年初に勝利したスペイン人民戦線へのクーデタという形で、軍部のフランコが反乱を起こした。スペイン人民戦線は、フランス人民戦線へと協力、支援を要請した。ブルム首相は即座に、要請に答えようとしたが、同盟国であるイギリスの反対を受け、ドイツ、イタリアの反感を買い、中立を保つことになった。ヨーロッパ、アメリカから数多くの志願兵がスペインと渡り、私もその流れに乗ることにした。
基本的に、戦争は憎いものであるし、いまもその考えは変わってはいない。だからこそ、今回のフランスがした決断には賛成できる。それでも、何がスペインで起きているのか、何が人々を苦しめているのかを確かめたくなった。両親の反対を押し切って、スペインに向かうことにした。
前線に着くと、小さな外国人作戦部隊に配属してもらうことができ、スペイン人部隊とともに戦線に参加した。女性の志願兵は、私一人。武器が思うように使えない。幾度となく、命を落としかけた。高慢な理想実現のために従事していると奮起しているゲリラグループは、意気揚々に、自信満々に人を殺める。しかし、現地の人々は怯え、私たちを見つめる瞳に限りない悲しみを感じた。
「救いがないんだったら、信じていても意味がないじゃないか」
どこかで耳にしたヤジが聞こえた気がした。漁村で目にした漁師の妻たちのレクイエムが脳裏に浮かぶ。自分たちが、本当は暴力を振る側に立っているのではないか、これは本当に正しいことなのか。抑えきれない呵責がこみ上げてくる。
満身創痍。心も身体も極限状態まで、打ちひしがれていた。意識が散漫する夕食。突然、足に激痛が走る。調理のために、コンロにかけてある煮えたぎる油の中に足を突っ込んでしまっていた。戦線では満足な治療もすることができない。一度、離れざるをえなくなってしまった。
戦線を背にして歩いていると、今までに経験をしたことがないほどの後ろめたさを全身で感じる。劣等感、敗北感、後悔はいくらでも人生の中で感じてきた。でも、後ろの命をかけて戦う戦士を見捨てて、戦場を後にする背徳感は凄まじい。自分の弱さに、自分の無力さに涙が止まらない。
私を心配してペルニャンに赴いている両親と合流して、パリに帰ることになった。三週間で足の火傷は快方に向かい始めた。その間、聞こえてくるアナキストの処刑のニュースに心がはち切れそうな思いを何度もした。
スペイン戦線での強烈な記憶が癒える訳もなく、季節は秋になった。少しは出歩ける体力までに回復した。そこで、パリのスペイン戦線支援集会に参加すると一人の男性が壇上から声高らかに演説している。
「スペインでは、非人道が当たり前に行われている。何も罪のない市民が、反乱軍の手によって、暴力を受け、悲しみ、苦しみ、死へと向かうしかない状況なのだ。これで良いのか、これで本当に良いのか。私たちは、自らの心に問わなければならない。否、これで良いはずがないではあるまいか。ソ連のスターリンに負けずに、今こそ、インターナショナル運動に参画し、人間らしさを取り戻そうではないか」
高らかに語られる「理想」に、嫌悪を感じた。これまで、労働者の地位向上のために粉骨砕身の思いで取り組んでつもりだ。しかし、農民や労働者の利益などは一切考えず、ソ連への対立構造を示しているだけではないか。憤怒を抑えて、集会を後にした。
ソ連への批判、そして、フランスがとるべき政策についていくつもの記事を書いた。戦線に参加する人々の立場に立ち、実業家のために死にゆく現実、いや、何のために死にゆくのかわからぬまま戦う現実を書いた。
翌年の春、私は何かに惹かれるように、イタリア旅行に行くことにした。スペイン内戦への参加、左派に対する嫌悪と心が壊れそうになりながらも、懸命に労働者に寄り添いながら生きてたつもりだ。それでも、救いはあるのか、魂は本当に救われるのか、答えの出ない疑問を抱えてはいた。
サン・ピエトロ大聖堂、ウフィツィー美術館を周り、ファシスズムを理解するべく党本部へも足を運んだ。それでも、自らへの根源的な問いは深まるばかりだった。
人の魂は、滅びゆくものなのか。滅びゆくのであれば、命を無駄にしないことが救いである。しかし、それは本当に救いなのか。それで、私たちは本当に救われることになるのか。滅びいく運命、重力とも言えるこの法則に争わずに、懸命に生きることが救いなのか。神は、何を思い、私たち人間を生かしているのか。
今にも、投げ出してしまいたくなる問いに、真摯に向き合うことしかできなかった。友人のために書き写した聖フランチェスコの伝記の一節が、ポケットにあることに気が付く。
「これらすべて、我々に授けられたパン、美しい小石、我々が発見したこの澄んだ泉は、神の摂理の恵みである。だからこそ私は、神が我々に与え給うたこの神聖なる貧しさの気高き宝に、神が心からの愛をお恵みくださるよう、我々が神に願うことを望むのだ」
なぜかフランチェスコという人物に懐かしみを感じ、強く惹かれる。フランチェスコが生きていたアッシジに行けば、何かわかる。そんな予感だけが私を突き動かした。アッシジに着き、真っ先にサンタ・マリア・デリ・アンジェリ礼拝堂を訪れた。入ると単に、外とは違う空気感であることに気づいた。明るく、そして、懐かしくもありながら、皮膚がピリッと張り詰める。どこまでも、静寂と幸福感が続いているような気がした。祭壇へと吸い込まれるように、我が消滅していく気さえした。
一番前の席まで来るとフランチェスコの偉大さとその寛大さに、思わず膝をついてしまった。人々の苦しみを取り除くことができない無力感、人生の敗北感。本当の救いとはなんであるのか。自分でも把握できないほどの、葛藤が心に押し寄せる。その重圧に押しつぶされそうになった時に、教会の門が開く音が聞こえた。
神父様が来たのか――。足音が、私の元へと近づいてくる。花々の甘い香りと、動物たちの鳴き声に包まれている感覚に陥る。ゆったりと流れる時間と張り詰める空気感。これが神聖さというものなのかと少し納得するところがあった。
足音が止まった。目を開けると、私の目に移るのは、一人の男性が跪いて祈る姿である。後光が眩しくて、はっきりと顔は見えない。しかし、美しい。祈る姿は、こんなにも美しいのか。
「世界は混乱に陥っております。人々が助けを求めております。かつては、信仰の火が灯ったヨーロッパの地に、大きな戦争の影が潜めております。どうか主よ、同胞たちの魂をお救いください。私の一切のものは、あなたに捧げます。見返りなどいりません。ただ、同胞たちの救済を願っているのです」
私の瞳からは、大粒の涙が溢れている。止めどなく流れている。これまでの人生の不安、敗北感、葛藤を押し流し、自らの無力感と寄り添うような幸福感に包まれている。神がここいる。神が目の前で、祈られている。
彼は私に語る。
「誰がために、自らを否定し、まったくの謙虚に徹した時、名誉や報酬があるわけではない。でも、そこには、ただ神の愛がある。労働において、報酬を求めるように、人生において見返りを求めるのではない。あの太陽が、燦然と輝き、地球を照れすように、他のために尽くすからこそ、神の愛は循環し、多くの人の心を包み込んでいく。あなたが、気が付かずとも、神は、いや、その愛は、あなたを生かし続けている」
日が暮れ、あたりが暗くなる頃、男性の姿はなく、日常が流れゆくのを感じる。私たちは、立場に違いはあれど、神への愛という根でもって繋がっているということを強く感じた。人生の重力とも言える苦悩や葛藤は、神の恩寵によってのみ克服できる。私の求めていた答えが見つかったような気がした。
一九四二年、第二次大戦が収束へ向かいかけているとき、病床についていた。急性肺結核にかかり、およそ四ヶ月の闘病生活を送っている。全体主義の台頭は、人類が「根」を持つことができなかったことにある。三十四という短い人生において、私は何ができたのだろうか。人々の心に、何を残せただろうか。聖フランチェスコ、貴方のように主に純粋に願い、寄り添うことができたでしょうか。
そんなことを思いながら永遠という時の流れの中に、私は没した。
シモーヌ死後、友人のディボンが数十冊の雑記帳をまとめ、『重力と恩寵』と題して出版した。無名の著者によるこの本は、哲学・宗教書としては異例のベストセラーになり、人々の心の糧になった。
※この小説は、哲学者シモーヌ・ヴェイユの人生を解釈し、執筆しています。完全なノンフィクションというわけではありません。
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