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短編小説「コーヒーとヘーゲル」

 ポタッ、ポタッ――。コーヒーが抽出された雫が、ガラス製のサーバーに落ちていく。また一つ、そしてまた一つと、落ちていく。粘性が高く、光に照らされると赤が透けるような液体が、底にたまり始めた。
 そんな音がかき消されないくらいで、この喫茶店ではBGMがかかっている。
 
 グアテマラ
 ブラジル
 コロンビア
 エクアドル
 キューバ
 エチオピア

 レジの奥の壁には、店で並べられているコーヒー豆の産地国の位置に、星印のシールが貼られていた。僕は視線を下に向けると、メニューには産地のほかにも、「ハンドドリップ」「サイフォン」と抽出方法や、豆の生成方法も詳しく書かれていた。他持論でいる僕を見かねて、若い女性の店員が優しく
「最近だと、スペシャルティコーヒーが流行しているので、ナチュラルの浅煎りがおすすめですかね。特別な味わいだったら、エチオピアのゲイシャも入っていますから、そちらとかはどうですか?」
と微笑んだ。

スペシャルティ、ゲイシャ……

 頭の中に浮かんだ単語は、何を意味しているのか分からなかった。だから嫌だったんだ。おしゃれな流行りの喫茶店に行くのは。専門用語で、まるで知らない人を馬鹿にしているような、そのあとに来る悪意のない笑顔が、余計、僕の心に痛みを走らせる。

「じゃあ、それで」

 一杯900円というコーヒーにしては高すぎる値段を財布から、金属製のトレイに静かに置いた。僕のそっけない行動にも、彼女は精一杯のサービスをくれた。
 受け取り口の近くに移動しながら、「ドトール」とか、「ベローチェ」とかに入ればよかったかと後悔をしたが、次の予定までの時間をあまり無駄にもしたくなかった。とりあえず目に入ったカフェに入ったのが事の顛末だが、「まあ、いいか」と言い聞かせて、何とか心を落ち着かせた。
 若い店員は、コーヒーの粉を丁寧にドリッパーに入れて、粉面を整える。ポットから注がれるお湯の糸が細く触れた。その瞬間に、僕のところまで香ってくるコーヒーの匂いは、確かに普段飲むものとは違ったものだった。甘酸っぱいような。それでも、苦みもあるような。この時には、僕の心を揺るがしていた「苛立ち」は、どこかに消え去ってしまっていた。

ポタッ、ポタッ――。

 再びガラスのサーバーに、静かにコーヒーの雫が落ちる。時計回りにゆっくりと、ゆっくりと、らせん状に湯の糸は波打っている。その様子を凝視していることに、あの店員は気が付いた。

「すみません。手際が悪くて、もう少しなんで、お待ちくださいね」

「いや、そんなじゃなくて。いい香りだなと思って。あと、なんかこういう作業を見てしまう癖があって」

「そうでしたか、よかった。私、ドリップを任されて、そんな経ってないので、毎回、緊張しているんです」

 彼女の目線は、そんなたわいもない会話の中でも、じっとお湯に注がれていた。じんわりと水面が上がってくると、湯を切って、サーバーからドリッパーが外された。

「お客さん、そんな難しい本読まれるんですね。すごいですね。」

「いや、これは趣味で読んでるだけなんで」

「なんていう本ですか?」

「ヘーゲルの『法哲学講義』っていう本で。政治哲学の本ですかね。」

「政治ですか、難しそうです。私にはとてもじゃないけど、読めそうにもないです。何だか、あなたに日本の未来を託したくなりますね」

 「大げさな」とはにかむ僕に、コーヒーの入ったマグカップを渡した。「ごゆっくりしてくださいね」と、笑った彼女が妙に記憶に残りそうだった。

 僕は喫茶店の奥の席に陣取り、早速、灰色の『法哲学講義』を広げた。

〈理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である〉

 そんなフレーズを唱えた心の声が体に響いてくる感じがした。そして、マグカップを口元に持って行って、口に含むと体を「安らぎ」を包んだ気がした。理性的なものは現実的なもので、現実的なものは理性的かぁ、と思いを巡らせてみる。そして、この「安らぎ」は、理性的か、現実的か……。堂々巡りに思考が入っていく――。

 ふと、自分の意識が、喫茶店のBGMに向く。

〈朝陽が水平線から 光の矢を放ち 二人を包んでいく瑠璃色の地球〉

 そんなフレーズが耳を掠めていった。喫茶店には似つかわしくない歌だった。窓から差し込む西日のオレンジ色の光は、コーヒーを照らしている。それは、地球とは似つかない紅色。それでも、なんとも言えない幸福感に、僕は包まれるのだ。
 ヘーゲルよ、この幸福感が分かるのか。決して伝わることもないこの言葉を、僕は『法哲学講義』の中に押し込めた。

〈理性的なものは現実的なものだが、現実はそんな単純にはできていない〉

 余白に書かれた文字に、少しだけ愛着が湧いた。若い店員が、こちらを向いている。僕は、カッコつけて、哲学者のように思索に更けるふりをした。
 そんな日常も、明日となればまるで夢のように消えていくのだろう。

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