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短編小説「言葉の海 大槻文彦」

 言葉の海――。その海は青く、そして深い。浜辺に打ち寄せる時という名の波は、言葉を飲み込んでいく。水平線上の遠点を見つめ、日本語という海に海図を与えた一人の男がいる。その名は、大槻文彦。
 黒船の襲来という大きな衝撃から明治維新を経て、日本は「国民国家」としての自覚を迫られることになる。しかし、民族アイデンティティーとしての言語の研究は不十分で、明治以前までは、「国語」は「くにことば」を意味し、各藩の方言を指していた。そんな状況の中、文彦は、国家事業とも言える日本初めての国語辞典『言海』の編纂を一人で成し遂げたのである。大槻文彦の静かで孤独な戦いは、十七年という年数を重ね、真摯に「日本語」に向き合い続けた。

 日本初の国語辞典編纂は、明治八年に宮城師範学校長に転出して仙台にいた文彦が、文部省の報告課に呼び戻された時から始まる。文彦は本庁に戻るや否や、当時、宮中顧問官、貴族院議員に勅選されてもいる教育界の大物・西村茂樹と出会う。

「君が大槻文彦くんかね。国語辞典を編纂することは、文部省発足以来、悲願とも言える事業である。しかし、碩学たちを集めても、意見の収集がつかず、辞書づくりが進まない。そこで、少数の若者に任せてみてはという意見が出ていてね」

「その話は、すでに聞いております。しかし、国学者の榊原氏が担当なさるということも聞きました」

「榊原くんは、生粋の国学者であるからね。この前の編纂担当者のように、洋学の知識がないところが心配なのだ。そこで、洋学を学んだ君に担当してほしいということなんだけどね。国学のところは、榊原くんに助言を求めてもいいとは思うけれども」

 西村から一通りの事情を聞き終わると、文彦の心は自然と辞書編纂へと向かっていた。

 辞書編纂を受けた文彦の志は、単なる辞書作りの職人、学者のようなものではなかった。維新の志士の如く、国を思い、国を憂い、国の独立、国の盛衰、国の道徳を自らの関心ごととしている。文彦の気質は儒学者でもあった父・盤渓の影響であるのかもしれない。盤渓は、幼少の頃から外国情勢を耳にすることが多かった。そのため、尊攘の考え方が跋扈している幕末では、盤渓は異端な考えの持ち主と見られる面もあったかもしれない。
盤渓の意向で、文彦は数え年で十六の時に江戸の洋書調所に入学することになる。そこで、文彦はまるでスポンジが水を吸うように英語と数学を学んだ。
ひと月もしない間に、盤渓は、現在の仙台市役所と宮城県庁一帯にあった藩校・養賢堂の学頭添役に任命される。大槻家は仙台へと移り住むことになり、文彦は洋書調所を去ることになる。
仙台に移り住んで早々に仙台藩主・伊達慶邦は盤渓を上洛の顧問として選出した。尊攘派の活動が少ない仙台藩であっても、慶邦の上洛の際には、仙台藩を尊攘派として立たせようと建議書が提出され、激しい議論が御前会議なされた。
 しかし、文久三年の正月に旅路の準備を整えて出発を待っているところに、突如、顧問変更の命が届く。死をも覚悟し大役に望んでいた盤渓は、深く落胆し、独り言のように言う。

「俺は、この命を盗んでしまったのだ」

 横で聞いていた文彦は、父に何故と問う。

「この度の上洛は、国の大事に関わる。仙台藩の行く末を決める大事な上洛でもある。しかし、京都では尊攘の議論が盛んになっていることが心配でもある。俺の知る限り、開国こそ日本の生き残るべき道。俺が、随行していれば、その論陣を張ることができた。だからこそ、死をも覚悟し、この大役を果たそうとしていた。君主のご命令とはわかっていても、やむにやまれないのだ」

文彦は、国を憂う父の姿に心打たれ、とめどなく涙がこぼれた。文彦にとって、生涯忘れることのできない出来事であった。


文彦が西村からの辞書編纂の依頼を受けて間も無く、父・盤渓は京へと旅に出る。随行人が、所用で離れるために、文彦自身が父の迎えに京へと発った。
盤渓と無事、合流できた文彦は、幕末の合戦の舞台である鳥羽伏見を歩くことにした。

「戦場であった街には、静けさが漂っている。それでも、京の鳥羽伏見は鳥羽伏見そのものであり、何も変わっていない。しかし、流れる水、川に浮かぶカイツブリは、戦いの時とは違う。同じように思えても、そこにあるのは違うもの。それを知りながらも、変わっていないと思えるものがこの景色なのかもしれない。時が流れても変わらない本質を見極め、日本人の生活に寄り添う辞書を目指さなければならない」

 文彦は、この景色に、自らの事業の大きさ、言葉に関わる厳しさを重ねた。
文彦の決意を試すように、様々な困難が辞書編纂に立ちはだかる。一八二八年に初版が出た『ウェブスター英語辞典』の編纂方針を参考に、文彦は自らの辞書の方針を定めた。しかし、『ウェブスター英語辞典』を参考にして、日本辞書らしきものを眺めていると、日本の言語学と欧米の言語学の差を感じざるを得なかった。
 室町以来の辞書もどきは、漠然と古い言葉を「雅語」と称し、後世に出て来たものを「俗語」と区別していた。日本語の無秩序を整理するとともに、現在進行形の言葉をどこまで入れるのかも検討しないといけない。課題は山積みで、もはや一からの根気のいる編纂を文彦は覚悟した。

 一つ一つの言葉の品詞、意味、そして成り立ちと向き合うとわかることがある。テニヲハや枕詞のように日本語独自の文法が存在しているという事である。諸国語文法との比較によって明らかになることでもあるし、それぞれの国の言語の特性を理解すること、それを体系的にまとめることが一国の文法ということなのだ。文彦自身、様々な言葉と触れることで、自らのやるべきことが鮮明になっていくのを感じた。
 それは、一つの言葉の歴史、生き様ともいうべきものが日本という国を形成していく様を見ているようで、なんとも言えない幸福感と充実感が伴う仕事でもあった。父・盤渓が死を覚悟してまで、守ろうとした日本という国はいかなる国なのか、それが自らの手によって明かされていくことに自分の人生の意味が明らかになるような気がした。
 一枚一枚と辞書編纂の原稿が進むように、明治前期が収束に向かって行った。伊藤博文による憲法調査の渡欧。日本銀行の設立。そして、内閣制を採用した伊藤博文内閣の成立と近代国家としての歩みを進めていた。そして、明治二十四年一月七日、『言海』の原稿訂正が終わった。そして、四月二十二日に『言海』が刊行されることになる。

 伊藤博文をはじめとする数多くの来賓が、文彦の偉業を称えるために、『言海』刊行祝賀会に訪れている。賑やかな、そして和やかな祝賀会の中を、静かに一歩を噛み締めながら演壇へと向かう文彦の背中に、来賓たちの視線が集まる。文彦は会場を見渡し、言う。

「私にとっての辞書づくりは、明治国家の文化づくりそのものでした。そのためには、日本語の文法の確立をしなければならなかった。西洋の言語学と比較することで、学ぶことで日本の偉大さを見いだすことができたと思っております。国を愛することを私に教えてくれた父・盤渓の夢を、辞書の編纂という形で成し遂げられたかもしれないと思っています。この国の未来と、そして、この日本語という言葉が世界に誇るべきものであると信じています」

 演壇を降りて文彦は静かに祝賀会を去り、『言海』の改訂作業へ戻った。

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