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静かに泳ぐ休日 | 創作<恋>

静かに、泳ぐ休日 目を覚ますと、窓の外は曇っていた。淡い灰色の空。しんとした朝。静かな休日の始まり。

 私はベッドの中でしばらく伸びをし、それからスマホを手に取る。アラームは鳴らさなかったけれど、いつもと変わらない時間に起きてしまった。習慣というものは、なかなか変わらないものだ。

 しばらくぼんやりして、それから決める。今日は水族館へ行こう。


 水族館に行くのは、もう何度目だろう。数え切れないくらい来ているけれど、飽きることはない。

 仕事を始めてから、一人で過ごす時間がますます好きになった。会社では、適度に会話を交わし、周囲に馴染みながら過ごしているけれど、休日はできるだけ人と話したくない。水族館は、そんな気分のときにぴったりの場所だ。

 私は淡々と準備をする。メイクは軽く、動きやすい服を選ぶ。水族館は意外と冷えるので、カーディガンも鞄に入れた。

 電車に乗る。

 車窓の景色が流れていく。乗客たちはそれぞれの時間を過ごしている。スマホを見つめる人、うたた寝する人、ぼんやりと窓の外を眺める人。私はイヤホンを耳に入れて、好きな音楽を流しながら、静かに過ごす。

 水族館の最寄り駅に着いたときには、雲は少し薄くなっていた。


 チケットを買い、エントランスをくぐる。

 水族館の匂いが好きだ。塩素の混じった、ひんやりとした空気。都会の喧騒から切り離された、別世界の入り口。

 最初の水槽の前に立つ。淡い青い光が揺れている。静かに泳ぐ魚たち。人の言葉を持たない生き物たちが、淡々と水の中を漂っている。

 私は水槽に近づき、ガラスに手を当てる。ほんの少し冷たい感触。

 水族館は、音が少ない場所だ。人が話す声や足音は聞こえるけれど、それらはすぐに水の中へ溶けてしまう。魚たちが発する音はない。静かに、光と影が行き交うだけ。


 一番好きな水槽へ向かう。

 そこには、大きなエイがいる。

 このエイを初めて見たとき、私はすっかり魅了されてしまった。エイは、まるで空を飛ぶように水中を滑る。その姿は優雅で、どこか人間の世界とは違う時間の流れを感じさせる。

 私はベンチに腰を下ろし、ただその動きを見つめる。

 エイがすべるように泳ぐたびに、光がゆらめく。静かな水の中、私も少しだけその世界に引き込まれる気がする。

 隣に誰かが座る。親子連れだろうか、子どもが小さな声で「エイがいる」と言った。私はそっと微笑み、何も言わずにその場を立ち去る。


 クラゲの水槽の前に立つ。

 水族館の中でも、クラゲのエリアは特に好きだ。

 暗い部屋の中に、ガラスの円柱が並び、その中を透明な生き物たちがふわふわと漂う。光を受けて、ぼんやりと輝くクラゲたちは、まるでこの世のものではないようだった。

 私は、しばらくそこにいた。

 何も考えずに、ただ光とクラゲの動きを目で追う。呼吸をするのを忘れるような時間。

 クラゲたちは、何を考えているのだろう。いや、そもそも「考える」という概念すら、彼らには存在しないのかもしれない。ただ、水に身を任せ、流れるままに漂う。

 私はその姿を見ながら、少しだけ羨ましいと思う。


 水族館の出口に向かう前に、ペンギンのエリアに寄る。

 彼らは忙しそうに歩き回ったり、水に飛び込んだりしている。見ているだけで、少し気分が明るくなる。

 それにしても、水族館には「静」の生き物と「動」の生き物がいる。

 クラゲやエイのようにゆったりと漂うものもいれば、ペンギンやアザラシのように活発に動き回るものもいる。私はどちらかといえば「静」のほうが好きだ。でも、たまにはペンギンたちのように、無邪気に動き回る日があってもいいのかもしれない。


 出口の近くにあるカフェに寄る。

 水族館の中にあるこのカフェは、窓の向こうに大きな水槽が見えるようになっている。私はいつものようにホットコーヒーを頼み、水槽の前の席に座る。

 コーヒーを一口飲む。苦味と温かさが、冷えた身体に染み込む。

 水槽の中では、大きな魚がゆっくりと回遊している。人の目を気にすることもなく、ただ静かに泳ぐ姿を見ていると、時間の感覚が曖昧になっていく。

 私は、こういう時間が好きだ。

 何かをしなければならないわけでもなく、誰かと話す必要もない。ただ、魚たちの泳ぐ姿を眺めながら、静かにコーヒーを飲む。

 しばらくして、私は席を立つ。


 帰り道、夕暮れが近づいていた。

 水族館を出ると、少しだけ風が冷たくなっている。駅までの道を歩きながら、今日のことを思い返す。

 静かだった。

 美しかった。

 そして、少しだけ、心が満たされた。

 電車に乗る。

 帰りの車内は、行きとは違う感覚があった。朝よりも少し、心が落ち着いている。水族館で過ごす時間は、私にとってそういうものなのだ。

 特別なことは何もしていない。でも、何もしていないことが、たぶん、いいのだろう。

 明日からまた、仕事が始まる。

 それでも私は、この静かな時間を心の奥にしまっておく。

 まるで水槽の中の一匹の魚のように。

 流れるままに、ゆっくりと、穏やかに。

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葉桐
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