公園の水飲み場で水を飲みたい
暑い、ともかく暑い。
私は屋外での労働をしているので水筒は絶対に手放せない。時には公園に寄って水を飲む事も有る。我ながらケチだとは思う、ただこれが性分故仕方無いのだ。(田舎在住だから水質は十分美味)
ところが多くの公園では水飲み場が閉鎖されているのだ。
殆ど使用されないとか、いたずらされるとか、洗車に使う人がいるとか、そう言う理由が有るのは分からないでもない。
それに変わって増えたのが自動販売機である。
今では、昼食代をケチるほどお金を持っていない同僚さえ、平気な顔をして缶ジュースやミネラルウォーターを買っている。だって熱中症で倒れるよりマシだから仕方ないじゃないか、となるのだ。
私が子供の頃、自動販売機でジュースを飲むのは特別な経験だった。
親に貰った百円玉を握りしめ、何を買おうかわくわくして自動販売機に走って行ったものだ。
普段水を飲んだ時でも、別に不都合があった訳ではなく、不快な経験だった訳では無い。
今の方が経済的には良い社会なのだろうが、昔の[敢えて贅沢として飲む缶ジュース]と、今の[それしか飲むものが無くやむを得ず買う缶ジュース]は、全く別の味がする気がしてならないのだ。
この、裕福ゆえに最低線の物が手に入らなくなる現象は、他の所でも起きている。
アフリカで失業中の人が、求職活動をしながら魚釣りをして糊口を凌いだという話を聞いた事がある。
聞いたときに、初めは全く意味がわからなかった。
日本で釣りをしている人なら分かるだろうが、釣りとはお金のかかる趣味である。
初期費用として装備一式数万円に遊漁券、交通費等
ルアーを無くしたり糸を絡ましてしまう初心者だと更に掛かる。少なくとも失業中の人が出来る趣味では無い。
他にも、南米の貧民層の子供達がサッカーに興じる姿を聞いた事がある。
日本ではサッカースクールは、月謝だのユニフォーム代だの遠征費だの、それなりの余裕の有る家庭のものである。
そもそもプロになる訳でもない子供の遊びにコーチが要るのかとか、揃いのユニフォームじゃなくても良いじゃないかとか言う人は、周りの裕福な人達の間でほんの数人のチームすら集めることが出来ずに、一人ぼっちで玉を蹴ることになるに違いない。
裕福になる、それ自体は基本的にいい事だ。裕福な人が増えると、儲からない貧乏人用のインフラは閉鎖されるのも、経済原則として仕方が無い事なのだろう。
でも、これは世界の進歩なのだろうか、案外アフリカの人達の方が、日本より良質な経済システムの中で生活しているのではないだろうか。
私も、缶ジュースが買えないほど貧乏では無いし、水よりジュースの方が美味しい事も分かっている。それでも私は敢えて水を飲みたい。これからも閉鎖されていない水飲み場を探して公園をうろつく事にしよう。