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言葉の境界線
小林多喜二『蟹工船』の有名な出だし「おい地獄さ行ぐんだで!」が現代語・新訳版では「これから大変な仕事が待っているぞ」に変えられているらしい。
「走れメロス」に出てくる「黙れ下賤のもの」も消えたとか。
「言葉狩り」というと有名だが手塚治虫の「ブラックジャック」を思い出してしまう。
ブラックジャックの「木の芽」という作品には「かたわ」という言葉が使われていましたが侮蔑的発言ということで「病人」に差し替えられたのは有名な話かもしれない。
何故か木の芽が身体から生えてくるという原因不明の病気に罹った弟を救うために兄が両親に内緒でブラックジャックに依頼。
ブラックジャックは「何故親に相談しない?」と兄にたずねると「だって弟がかたわなんて知ったら悲しむ」と答える。
ブラックジャックは昔「かたわ」と言われていたことから兄に「二度とかたわなんて言うな!」と怒るのだが、「病人」にかえられたためブラックジャックが何故ここまで怒るのか分かりづらくなってしまった。(手塚治虫は医師免許は持っていますが臨床経験はなかったためか、よく誤解を受ける表現を使ってしまい問題になってしまったようですね。手塚作品が闇に葬られるよりは差し替えてでも残ってくれたほうが嬉しいですが‥)
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そして言葉狩りとか表現の自由について考えたていたら桐野夏生の小説を思い出した。
「社会に適応した小説」を書いていない小説家たちを海辺の療養所に軟禁して更生させようとする政府組織。「文化文芸倫理向上委員会」略して「ブンリン」(やっていることは更生というかほぼ虐待)
生き方は多様化されているはずなのに、何故かどんどん息苦しくなってしまっている気がする。
作中で主人公のマッツはお利口さんな作文みたいなものばかり書かされる。
(マッツが「こんなんいくらでも書けるわ!」と書きまくるところがブンリンの連中との才能の差を見せつけているようで少し小気味良い。)
平易なお利口さんな文章ばかりが世に求められるなら、作家とは一体なんなのか。
誰にでもわかるお利口な表現のみ認められる世界になってしまったら小説って何なのか。
形容しがたい感情を自分なりの言葉で表現することこそが作家の力量なのでは‥。
その一段の婦人の姿が月を浴びて、薄い煙に包まれながら向こう岸の撤に濡れて黒い、なめらかな大きな石へ蒼みを帯びて透き通って映るように見えた。
このような美しい表現に出逢ったときは、日本語の美しさに息をのむ。
誰にでもわかるお利口さんな表現ばかりの作品ばかりになってしまったら誰が1500円も出して小説を読むのだろうか考えてしまう。
「時代に適した」って確かに大事なことではある。
だけど本には熱量というものが確実にある。規制され続けたらパワーが不足してしまうのではないかと心配してしまう。(最近熱量を感じたのは吉田修一の「国宝」)
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