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長谷川潾二郎 エッセイ「タローの思い出」②

 タローは成長した。じゃれる事も少なくなり、毛並みは美しくつやつやして、骨太の逞しい猫になった。動作は静かで行儀が良かった。台所の台の上のお魚が出ていても、登って食べるような事は決してしなかった。タローは私達の食事中、側に来て座り、私達の列に加わって皆の顔を見ていた。私達は時々お行儀悪く、食卓のものを紙に載せてタローへやったが、タローはもっと欲しいと駄々をこねるような様子はなかった。こうして、皆の中から顔を出して座っているタローを見ると、まったく家族の一員と言う感じがぴったりするのだった。
 タローは一日の大半を寝て過した。眠るのが仕事ではないかと思われた。家内は、(主人にそっくりです。)と言った。これには返す言葉がなかった。私は多眠性であり、夜十分眠った上に、必ず昼寝をした。又は、私は寝ころんで目をつむって考えるのが好きであったが、その場合も、家内は眠っていると断定した。その証拠に確かに鼾をかいていたと言うのだった。不覚にもついうっかり鼾をかいた事があるかも知れないと思うと、それについて強く抗議出来なかった。この問題にはふれない方がいいと思った。
 しかし私には仕事があった。仕事と仕事の間を私は眠るのだった。私がアトリエにいると、時々タローはそっと入って来て、側に座って、描いている私をじっと見ていた。第三者の静かな態度で、私が動かす画筆の先端をじっと見ていた。人類のする事はどうもよく判らない、不可解だ、と言っているような感じだった。それからぴょいと椅子の上に飛び乗ってぐっすり眠って仕舞う。まるで、(眠りに勝る宝はない)―(アナトール・フランスの文章の中で読んだ言葉。)―と言っているかのように。

 タロー、と言えば、私は、その寝ている姿が真先に目に浮ぶのである。彼の伝記は、その大半を睡眠の空虚で埋めなくてはならない。しかしそれでいいのだろうか。考えれば私達は猫について無知であり、一所に暮らしているとは言え、知っている事はごく僅かなものである。タローは時々庭へ出てすぐ帰って来たが、それははばかりに行くためらしいが、それが何処か私は知らなかった。又それだけではないらしい。時々、数時間、小半日帰らない事があったが、何処へ行って何をしているのか、まったく見当がつかなかった。恋の季節になると、度々家をあけて、時には二、三日帰らない事もあった。そう言う時は、きっと朝早く食堂の窓から帰って来た。それを私は、(放蕩息子の帰宅)と名づけた。又、庭に度々女猫が現れて、歩き廻ったり、立ち留ったりして家の方を見ていた。近所の飼い猫で、ほっそりした美しい白猫だったが、タローはこれにはまったく興味がないらしく、家から出ようとはせず、窓から顔を出しても、白猫は目に入らず、居ないも同然で、木で鼻をくくったような態度だった。私はこのようなタローの態度を面白いと思った。しかし私達はタローの恋人を見なかった。私は猫の恋の実態について何一つ知らないのである。動物にとって最も重要な意味をもつこの時間を知らずに、猫について知っていると言えるのだろうか。タローは、近くにある地主の、森のように樹木の繁った大きな庭へ行くらしかった。猫には猫の道があり、広場があり、宮殿やホテルや庭があるのだが、それはまったく私の知らない世界だった。考えれば、人間についても同じ事が言えないだろうか。生活を共にしている家族の心を、本当に私達はよく知っているだろうか。一番近い細君の気持を、十分知っていると言える夫が果して何人いるだろう。あるはっきりした共通の問題について、家族の意見が、気持が明らかに判明するのは事実である。しかし人間の複雑な心の多くの部分は、未知の暗黒の中に埋れている。私の前に弟が座っている。彼が今何を感じ何を考えているか、私には皆目見当がつかない。―(しかし知らないことが重要なことだと言う事は私に判る。)―
兎も角このような有様であって見れば、家畜について私が無知なのは当然のことかも知れない。人間は猫と一所に何千年も暮らして来たが、依然としてそれは謎である。

 私は休憩時間に、眠っているタローを見るのが好きだった。ある時、アトリエから出ると、タローは縁側に寝そべって眠っていた。私は傍へ行って座って観察することにした。彼の呼吸につれて全身が静かに脈打ち、その動きが伝って、ふさふさした毛並が絶えず動いた。目を近づけると、視野全体になだらかな丘が現れ、其処に一面に生えた細い毛の深林が、その繊毛の先端がそれ自身生きているように幽かに震えてゆれている。その上には空間が、無の虚空が、無限の宇宙が広がっている。これは且つて見たことのない不思議な風景だった。空間の中で、無数の繊毛が皆、煙るように幽かに震えているのを見ていると、其処は深い静寂と寂寥が溢れているように感じる。考えても判らない事は考えないことにしよう。しかしショックを受けた感覚には余韻が長く残っている。やがて頭がぼんやりして来る。広大な宇宙の空間に、タローの眠る形は、謎の実在として私の目前に浮んでいる。私はぼんやりそれを見ている。いつまでもじっとしている。私自身、タローの眠りの中へその置位(原文まま)を移したかのように。      (つづく)

お借りした写真をスマホで撮ったものです…


長谷川潾二郎 《猫》1966年 宮城県美術館 洲之内コレクション