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地平線の向こう側へ。2011年、311からの旅。その3。北海道の仲間たちとの出会い。

ニセコ町の比羅夫と言うリゾート地帯のオーストラリア人の経営するアパートの一室を、北海道に上陸したその日に借りることができた我々家族三人。そこでの約一ヶ月の暮らしが始まった。
突然の大地震、そして原発事故、避難生活。
突然おとずれた非日常になすすべなく、ただ流れるままにたどり着いた場所。
限界を越える精神。不思議だが悩むことはなかった。考えることすらない、というか出来ない。ただただ、時と共に、ここにいる感覚。ぼーっとしているわけでもないが、かといって深刻さもない。
大きなけがをした時に瞬間的に脳内麻薬が放出されてしばらくの間は痛みを感じないように人間の身体はプログラムされているが、それと似たようなことが精神にもあるのだろうか?
自分にとっては極限状態だと思われる状況だったが、メンタルは結構平気だった。とにかくよく眠った。今まで人生で寝足りなかった分を全部寝たと言ってもいいくらい好き放題寝た。
心配事と言えば福島の自宅兼診療所に置き去りにしてきた2匹の猫たち、ムクとマリのことだ。

札幌時代のムクとマリ


2009年に矢吹町にある美容室『PURE』を経営する女性の美容師さんから譲り受けたチンチラのオスとメスの兄弟猫だ。彼女の家には当時で三十数匹のチンチラがいた。さらに増え続けていて正確に何匹いるかわからないくらいらしかった。まさに猫屋敷、彼女はチンチラ猫のために働き、チンチラ猫のために生きていた。彼女の家に行くと大小様々な成長段階のチンチラ猫たちがそこらじゅうにいる。数カ所で生まれたての子猫たちに乳を与える母猫の姿も見られた。
彼女は言っていた。
「猫は正直で嘘がないから。」
「人間は裏切るけど、猫は裏切らないから。」
過去の人間関係で相当ひどい目を見たんだろう、そう言うときの彼女の目は、どこか悲しそうに遠くを見ているようだった。
人間や人間社会の嘘や欺瞞に嫌気がさし、
     純粋で「Pure 」な猫
という魂たちとの世界にはまり込む彼女の気持ちはよく理解できた。さらに彼女がこの世を生きていくうえで感じている苦しさや居心地の悪さも彼女と対話していると、手にとるようにわかった。
それは彼女の仕草や言葉、人に対する時の表情など、いろいろなことからも読み取ることができた。

彼女は人に対しては、嘘をついていた。それを彼女はわかっていてやっていた。自分を守るために。本心を隠し、まわりに合わせていたのだ。
家に帰りチンチラ猫といる時だけが彼女が彼女自身でいられる時間だったように思う。
嘘のない本当の世界。彼女のPureな心の求める世界を彼女はひとりでひっそりと創造していた。

そんなチンチラキチガイの彼女から譲り受けた2匹のチンチラを家に置き去りにして北海道に逃げてきてしまったことだけが悔やまれた。
あの時(3.11の地震直後)突然の事態にムクとマリのことまで考える余裕はなかった。自分達のことしか頭になかった。あれから一週間ほど過ぎ、北海道に上陸して少し心が落ち着いた時に急にふたりのことを思い出した。
そして彼らの安否をずっと心配していた。
歯科の材料屋さんで、うちに出入りしていた「橋本くん」という営業の人に電話して、とりあえず数日に一度は様子を見に行ってもらって、ごはんと水の面倒も見てもらっていたので助かった。
彼には本当に感謝しかなかった。勝手に北海道に逃げて、材料も買ってくれない取引先の猫の面倒を嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれた。
橋本くんも本当はいやだったと思う。よく考えたら迷惑な頼みである。営業マンにとってなんの特にもならないことを引き受けてくれた。
ただただ有り難かった。
橋本くんはムクマリにエサと水を与えに行った帰りには必ず電話をくれたので、ムクとマリの安否に関しては心配していなかった。
それでも大切なふたつの小さな命が遠く離れた福島の家で、ふたりで寄り添って放射線に曝されて不安な時を送っていると思うと、とても辛い気持ちになって涙がでた。ふたりに早く会いたい。

そんな悩みをよそに時は流れる。

ニセコのアパートに住みはじめた次の日、車で妻と娘をつれて走っていると、比羅夫のメインストリートのはずれにある白い漆喰のような壁で丸い形をした小さなドーム型の雑貨屋兼カフェのような店の前にたくさん車が止まっていて、人が結構出入りしているのが目にとまっった。なんとなく気になって、そこの駐車場に車を停めた俺は、その店の小さな入り口のドアを開けた。すると中は小さなカフェ兼雑貨屋のようになっていて、畳10畳くらいの空間に記憶は曖昧だが、まあまあたくさんのひとが立ち話をしてる感じだった。奥にもうひとつ靴をぬいで上がる部屋があり、そこにも数人のひとがいるような感じがした。
「こんにちは。」
とあいさつしながら店に入ると、中にいた人達が一斉にこっちを向いた。
「なんか賑やかそうなので入ってみました。なにかやってるんですか?」
と尋ねると、奥にいた30代前半くらいに見える、きゃしゃで明るい自然派の生成り色の服をきたロハスな感じの女の人が
「こんにちは〜」と返してきた。雰囲気で一目みてこの店のオーナーであることがわかった。
決して大きいとは言えない白い漆喰の壁のように見える外観のドーム型の建物のなかには、まあまあ多くの若い人たちが集まって談笑していた。どうやら30代くらいが中心の集まりのようだった。
和気あいあいとしたコミュニティー的な雰囲気を感じ取ると、ついついその場のエネルギーに溶け込めない性質な俺は、その場の空気感に少し気がひけたが、勇気を出して自己紹介的なことを、そこの店の女性オーナーに話した。
3月11日の地震のことや原発事故の事、福島から避難してきて、今このエリアにアパートを借りて住んでいることなどを話すと、周りにいる人たちも俺の話に注意を向けて聞いているのがわかった。女性オーナーも真剣な眼差しで俺の話を聞いていた。そして俺が一通り話終わると、彼女がフレンドリーな雰囲気で話し始めた。
「実は今、東北大震災のチャリティーイベントをここでやっていて、みんな仲間が集まっていろんなことをここでやって、売上金を被災地に募金しようと思っているところなんです。偶然被災された方が来てびっくりしました。」
そこに集まっている仲間やお客さんを観察してみた。地元のヒッピーでロハスなラブアンドピース系のメンツが、いい感じで集ってワイワイしていた。
俺たちは偶然にもニセコの地元の意識高い系の若い有志が集まる震災のチャリティイベントにお邪魔することになったのだ。
その小さな店の奥の部屋にはドアはなく靴を脱いで上がる座敷のような部屋があり、6畳くらいの広さがあったと思う。
部屋の入り口に あった
ゆらゆら整体 1000円
という小さな看板が目に入った。避難生活で心身のストレスもあったせいもあり、その看板を見て吸い込まれるように座敷に上がった俺。そこには数人の人がいた。そのうちの一人が坊主頭で痩せ型のヒョロっとした面長の紺色の作務衣をきた30代中頃の青年で、その人が ゆらゆら整体 の整体師の先生だった。
「あのう、すいません。整体してほしいんですけど」と彼に言った。
「はい、どこがつらいですか?」みたいな感じで
にこにこと笑顔で彼が答える。人懐こそうな優しい目をしていた。
俺はかれに事情を簡単に説明した。そしてそこに敷いてあったマットに仰向けで横になると、何やら施術が始まった。
最初に身体を触診したり動かしてみたりして診断している様子で、次に足先を掴んで左右に足をゆらゆらと揺さぶり始めた。
これが ゆらゆら整体という所以か。
あまり詳しくは覚えていないが、押したり引いたりマッサージだったりという、よくある整体のスタイルとはちょっと違うユニークな手法で、ソフトで優しい、どちらかと言えばヒーリングといった方がいい施術を時間にしたら20分くらい受けた。
施術中にいろいろ話しているうちに大麻の話になり、すっかり意気投合したふたり。背術が終わって1000円彼に渡すと、彼は俺に名前と住所、携帯の電話番号が書かれている名刺を差し出し、
「また、自宅の方に治療に来てくださいね」と笑顔で言った。
爽やかで軽い波動の彼、そして大麻と言う共通の世界観が合ったこともあり、俺は彼のことをすぐに気に入った。どこか宇宙人的な軽い精妙さを彼のオーラから感じ取った俺。とにかくいい感じの安心感のある彼のエネルギーに心身ともに疲れていた俺はとても癒されたのを覚えている。
彼の名前は大介(仮名)、ニセコの隣の真狩村の自宅で普段は整体院をやっていた。彼もスノーボーダーでもともとは本州出身だが、スノーボード好きが昂じてニセコに移住したくちである。
そしてニセコには彼のような若い移住者が多く住んでおり、シーズン中はボードを存分に楽しみ、シーズンオフには地元の農家でアルバイトをしたり自分の得意なことでお金をかせいだり、という生活を楽しんでいる人達が多くいた。
その日、そんな移住者や地元のボーダーが集まってチャリティーイベントをこの店でやっていて、そこに俺がやってきたというわけだ。
「そのうち真狩のうちに整体に来てください」
最後に大介くんが言った。
「はい。おじゃましに行きます」
そんな感じで最後に挨拶をして整体コーナーの部屋からでた。
靴をはいてでると,今度は店の外の玄関先で立ち話をしている数人が目に入った。
玄関をあけて店の外に出たおれは、そこにいる数人の人たちに挨拶して話の輪に入った。側には雪かきした後の積み上げられた雪が腰の高さぐらいに残っていた。
3月中旬のニセコ。薄手のパーカーに素足でクロックスのサンダルを履いている俺をみて、そこにいたみんなは少しびっくりしている様子だった。
「寒くないんですか?」
と聞かれたのを覚えている。みんな長靴にしっかりしたアウターを着込んでいる。
そこにいたのは俺より10歳下くらい、30代半ばの男女が3人、うち2人は夫婦でもう1人が友達の男性という感じで、全員地元のスノーボーダーだった。カップルじゃない方の若い男性はスポンサーつきのプロのボーダーで、いろいろな武勇伝をきかせてもらって楽しい思いをした。
この人、どっかで会ったことあるよなあ、昔から知ってる感じがする、
と感じる出会いが生きているとたまにあるが、
その時そこにいたカップルの女性の方と話している時、まさにそんな感じがした。さばさばして明るく堂々と俺の目をまっすぐに見て話す、しっかり肝の座った感じがとても気持ちよく親しみが持てた。
この人、知ってる人だ。
明るく堂々とした態度の彼女に家族と思えるほどの壁のなさを感じた。
いろいろ談笑しているうちにその場にうち解けてていった俺。妻と娘はだれと喋っているのかわからなかったが、俺は店の外で3人のボーダーとの会話に夢中になっていた。
この時話して知り合った当時30代の寿都町に住む夫婦、F君とK子ちゃん、整体をしてもらった大介くん、彼らは後に、農業を一緒にしたりいろいろな体験を共にする北海道での最初の友人となった。
何気に立ち寄った、小さな雑貨屋兼カフェが、北海道に上陸して最初の縁をもらう記憶に残る場所となろうとは、その時は思っていなかった。
その時、連絡先を聞いたのは整体師の大介くんだけで、FくんとK子ちゃんとは外で立ち話をしただけで、特に連絡先の交換とかはしないで別れた。
 ニセコエリアは当時、地元の若い意識の高いスノーボーダーや、全国から移住してきたスノーボード好きの若者と、オーストラリア人を中心とした長期滞在でスノーボードを楽しむ外国人観光客たちのクロスオーバーした独自の文化圏を作っていたが、3.11の地震で外国人たちは日本国外にほとんど退去していて、外国人の数は例年の同時期に比べると少数となっていた。
それでも世界のニセコと呼ばれるくらい上質のパウダースノーを擁するニセコ、雰囲気は他の北海道の田舎と比べたら格段に垢抜けていて洒落た感がある。外を歩く白人の姿もちらほら見かけた。
カフェやその他の飲食店も、どこの店をとっても個性的でお洒落で、欧米や中国人の富裕層むけの高級で豪華なレストランやホテルなどもたくさんあった。
街中の色々な店に置いてある英語や中国語で書かれた観光地によくあるパンフレットにはステーキ店やイタリアン、フレンチ、寿司店などなど、どれも一桁値段が違うような高級店がずらりと載っていた。
避難直後で収入もなく、あるお金といえば家を出る直前に歯科医院の金庫にあった5万円くらいの現金と100万円くらいの残高のある預金、それとVisaのクレジットカードくらいで、しかも毎月50万くらいの借金を返済しなければならない俺たち家族、華やかなスキーリゾートで豪遊するわけにはいかなかったので、できるだけ安い食材を地元の道の駅にある市場で安い野菜や食材を買ってきてはアパートで自炊していたので、富裕層向けのレストランやリゾートホテルは毎日のようにたくさん目にするが、利用することはなかった。
それでも2日に一回くらいは、北海道ではメジャーなスープカレーをみんなで食べに行ったり、さほど値段が高くないが美味しい飲食店も点在していたので、そういった庶民的なお店に行ったりもしていた。
暇な時は小洒落たカフェでコーヒーを飲むこともたまにあった。
ニセコジンギスカンが美味しかった。生ラムで味のついていない羊の肉、最高に美味かった。塩こしょうで初めてジンギスカンを食べた。
ニセコの隣街の倶知安(くっちゃん)町の地元の魚屋で魚介類を買ってアパートで食べたりもした。
『ソイ』と言う白身の魚の刺身が絶品で驚いた。時期が良かったせいか脂ののりも半端ではなくコリコリとした新鮮な食感と濃厚だがくどさを感じない脂の旨味に驚き感動して喜んだ記憶がある。
その他、ホタテやホッケ、ししゃもなどの北海道の定番魚介類も安く買えたので、ここぞとばかりに買っては、みんなでアパートで食べたりしていた。
魚介類はどれも皆新鮮で美味しかった。日本のあちこちで食べる魚介類よりも、北海道の魚介類はやはり美味かった。寒さと魚介類の旨さは比例するのだろうか。
ニセコに落ち着いて数日後には三人でレンタルスキーを借りてスキーもした。
せっかくニセコに来たし、もうシーズンも終わりで数日後にはスキー場も閉まると言うので出費はかさむが、やっておこうとゆうことで初めてニセコのパウダースノーとやらを体験しようと思ったが、3月下旬で気温も上がってきていたので雪はパウダーどころかシャバシャバのシャーベットみたいな雪だった。
それでも20年ぶりくらいに乗るスキー板の感覚をまあまあ楽しんだ。もともとスキーやボードが好きなわけでもなく、学生の頃付き合いでやっていたくらいなのでそんなに嬉しいわけではなかった。しかし、避難生活のストレスで笑顔があまりなかった娘が嬉しそうに笑っているのを見た時とても安心した気持ちになった。

この辺りには温泉も多く点在しており、アパートのすぐ隣にも温泉があった。
『湯ころ』と言う名の宿泊付きの温泉で、地元民や観光客むけに日帰り入浴もやっている。部屋から歩いてすぐなので毎日のようにそこにかよった。透明で濃厚な高温のお湯がどんどん掛け流しで出てくる、まだ寝雪の残る露天風呂に浸かっている時は何もかも忘れて癒されていた。
そのほかにも車で10分くらいのところにも一ヶ所日帰り入浴できる温泉があったり、山の奥の方に行くと「五色温泉」という有名な名湯もあり、そこにもたまにいっていた。
故郷の福島とくらべ、北海道の自然はスケールが違っていた。特に比羅夫から正面に観る羊蹄山はすこぶる大きく見えて始めて見た時は感動ものだった。
ああ、俺はこれから、このでっかくて地平線の見える北海道で暮らすことになるんだな。
これはこれでいい体験かもな。

先行きの見えない不安はあった。
いつもではないけれど、暇な時ふとした瞬間に金のことなどを考えて不安に落ちいる自分がいた。しかし、考えても何かが解決するわけもなく気分が落ち込むだけなので、なるべく後先のことは考えないように努力していた。
おかげで比羅夫でのアパート生活は快適でなんだかんだ言いながらもお気楽な時間を過ごしていた。

そういえば1996年に5000万円の借金をして歯科医院を開業してからずっと働きっぱなしだった。長く休んだ記憶といえば、家族と親友を連れてハワイに五日間行った時とオランダに家族3人で一週間行った時くらいだった。
地震が起きなければこんなに長い間仕事をせずにいることなんてなかっただろう。
またしばらくしたら家族を養うために、また働くことになるだろう。
ならば、ゆっくりできるのはいましかない。
そう自分に言い聞かせて、この状況を肯定的に考えてリゾート気分で楽しむことにした。
リゾートと思えば、ここは願ってもないニセコというスキーリゾートだ。シーズンオフにはなるが羊蹄山のふもとに広がる大自然の中で、身も心も癒される体験をさせてもらった。
時の流れは早く感じた。時々、夢を見ているんじゃないか?と本気で思う時があった。
夢、、、ゆめ、、、夢、、、。
その感覚に入り込むと
この世のすべてが夢、幻のように思えた。
死んだらすべてが終わる幻。
俺はきっと
生きる、
という幻を観ているだけなんじゃないのか。
そんな不思議な感覚に何度もなった。
そして、そんな夢の中、毎日遊んで暮らした。
仕事をしない生活にも慣れてきて、このまま仕事しないで一生遊んで暮らしたいな、思ったりしたが、近いうちまたどうせ働くことは目に見えていたので、その覚悟を決めながら、精一杯休んで遊ぼうと思った。
この時点で未来は何も決まっていなかった。
自分の選択次第でどうにでもなる人生。
ニセコの大自然のなかで、突然の非日常を体験しながら、俺は不確定な人生に対して徐々に開き直っていった。
いままでは先が見えるようにある程度の計画や目標をがあっての人生だった。
でもこれから先、計画も目標もなにもない。
あるのは目の前にある
いま 
という世界と流れる時間だけ。
俺は毎朝おきて福島の実家の父親に電話をして福島から避難するように促した。時には泣きながら訴えたが、父親はなんでそこまで俺が真剣に避難しろ、というのか理解出来なかったみたいだ。避難してくれと説得しても、いつも決まって
「われわれは年とってるし、生活力がないから福島を離れて避難しても生活できない」
というのが父親の口から出る答えだった。
結局、一緒に栃木まで避難した母親と妹をはじめとする他の家族たちは妻の母親や妹も含め、全員が福島に残ることを選択した。自主避難という選択をしたのは我々三人だけだった。

妻と娘は震災のショックと避難生活のストレスで相当まいっている様子だったが、なんとか平静を保っていた。
とにかく毎日やることもなく、みんなでドライブに出かけたり散歩したり温泉に行ったり、予定のない時間を過ごすうちに一週間があっという間にすぎた。
三人の中で俺が一番楽なマインドでいたと思う。
何せ全てが初めての場所での生活が新鮮で、そこだけとってみれば最高に楽しい旅をしているようで、そう考えたらこれもいい人生の体験だ。
そんな前向きなマインドセットでいる時は気分がよかった。
ただ、どんな時でも心の奥に引っかかってモヤモヤすることがあった。
福島の家に置いてけぼりにした、2匹のチンチラ猫、ムクとマリのことだ。
夜、アパートのベッドで寝る時、横になって眼を閉じると必ずムクの顔が瞼の裏に出てきた。
つぶらな瞳で必死に俺に何かを伝えようとしていた。それがたまらなく辛かった。
はやく助けなきゃ。
はやくこっちに連れてこなきゃ。
その気持ちは日の日に強くなっていった。
そんなこんなでいろんなことを考えたり遊んだりしながら、ニセコでのアパート生活も一週間が過ぎようとしていた。







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