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窓から見える景色と儀式と意識
朝、会社の休憩室でコーヒーを飲むのが僕の"日課"である。
ふと窓の外に目を向けると、隣のビルが見える。
すると、社員らしき人たちが恒例の"アレ"をやっているではないか。
そう。
ラジオ体操だ。
僕自身、以前勤めていた会社で毎朝やっていたなあ、と、記憶が蘇ってきた。
毎日毎日。仕事が始まる前に社員みんなが集まり、ラジオ体操をする。
大抵は1番目の歌詞で終わり。2番目以降はやらない。
当時は、なんでこんな古臭くてめんどくさいこと毎日やるんだろ。あー、ダル。と、思っていたわけだが、
今考えると、ラジオ体操の秘めたる力に僕は気づいてしまった。
ただの体操とあなどることなかれ。
体を動かし、血流を良くする以外にも、「ラジオ体操」には、実は人生単位で影響をもたらす重要な意味が隠されている。
それは、
ラジオ体操=「儀式」だということだ。
詳しく解説する。
まず、「儀式」がもたらす効能は大きく2つある。
1つ目は「区切り」をつけてくれるということ。
毎朝、同じように「儀式」をやることによって、
「はい!いまから仕事やりますよー!」
と、体と気持ちを「切り替える」ための「区切り」を作っているのだ。
まあ、学校でいうところの「HR」や「始業式」「終業式」みたいなもの。
ようは”スイッチ”だ。
家電製品だって同じ。スイッチが無ければ電源が入らない。人間における電源をポチってくれるのがラジオ体操という「儀式」である。
では、これを人生単位で考えてみるとどうだろうか?
例えば、
入学式。卒業式。入社式。結婚式。葬式。お正月。お盆・・・。
日本は四季をはじめ、節目に多くの「儀式」がある。
仮に節目の「儀式」が無くなったとしたら、風情を感じられない無機質な1年になってしまうだろう。
つまり、毎日という単位であれ、人生という単位であれ、
何かを「始める」とか、何かを「終わる」という「区切り」をつけるときに「儀式」は重要な意味を持つ。
そして、「儀式」をすることによって、人の「意識」が切り替わり、次の行動に移ることができるのだ。
また、
「儀式」とは、「リズム」を整えるためのものでもある。
特定の音が「繰り返される」と、一定の「リズム」は生まれる。
毎日、同じ時間に、同じ形式で繰り返される「ラジオ体操」は、「儀式」であり、「リズム」を整える作用もあるということ。
一定のリズムは心地良いけれど、崩れたリズムは違和感を生む。
毎日やっていたことが、突然やらなくなると調子が狂うのと同じである。
だからこそ、毎日・毎月・毎年、何かしらの「儀式」を行うことは、
「人生単位のリズム」を整えるためにも重要なのだ。
続いて、
「儀式」がもたらす効能の2つ目は、「一体感」である。
健康上のメリットだけだったら、みんなで集まってやる必要もない。各々、自分に合ったストレッチ等をすればいい。
でも、大切なのは「みんなで集まってやること」なのだ。
「儀式」を辞書で引いてみると、
祝い・祭り・弔いなどのために、一定の形式と順序を踏んで行う作法。また、その行事。
だそうだ。
祝いも、祭りも、弔いも、目的は「様々な感情を他者と共有すること」である。
そして、
他者と感情を共有できると、「つながり」が生まれ、繋がる人数が多くなればなるほど、「一体感」が生まれる。
「社員が一箇所に集まり、ラジオ体操を行う」という「儀式」を行うことにより、社員間の「つながり・一体感」が生まれるということ。
「一体感」は、音楽フェスなどは想像しやすいかもしれない。
大勢が同じ会場に集まり、好きなアーティストの音楽を楽しみ、体の揺らす。
すると、会場全体に「一体感」が生まれ、画面越しでは伝わらない迫力だったり、つながりを感じることができる。
職場における「つながり作り」という重役を、「ラジオ体操」は担っているわけだ。
というわけで、
「ラジオ体操」=「儀式」に隠された秘めたる2つの力、
・区切りをつくる
・他者と気持ちを共有し、一体感が生まれる
を、解説してみた。
「儀式」と聞くと堅苦しいイメージがあるけど、日常生活とは切り離せない、非常に重要な要素だったんだなと、改めて感じる。
だからこそ、
古臭くて煙たらがれようとも、未だに「ラジオ体操」という「儀式」は、日本のいたるところで行われているのだと思う。
そんなことを考えながら、
僕もまた、会社の休憩室でコーヒーを飲みつつ、「隣のビルの儀式を眺める」という"儀式"を行うのだ。