見出し画像

【連載小説】バックミラーの残影 5の2

            残影の3(後編)

 翌年になって、橙太は、仕事のほうもようやく慣れてきて、何とか一人でこなせるようになった。文書作りは、相変わらずあまり上達はしなかったけど、関係合議先を回っていくうちに適当な訂正が入り、決済時には何とかまともな文書に仕上がっており、ほっと胸をなでおろしたことが何度かあった。
 そんな訳で、仕事は何とか回りだしたのだが、何しろ机に座っての時間が多いことから、どうしても運動不足という問題が生じた。宿舎は、食事付きの独身寮に入れてもらっていたが、職場からは徒歩で四十分ぐらいの距離なので、歩いて通うことにした。それでも運動が足りない気がして、一週間に何日かは早朝散歩をするようになった。
 五月の良く晴れた朝、空には真っ白な綿雲がわずかに浮かんでいるものの、快晴で、東の空から太陽が、街並みを柔らかく照らしていた。初夏とはいえ、朝方は涼しく、長そでのシャツを着て、緑色のスニーカーを履き、橙太は、散歩に出た。寮の近くの公園に来ると、木立の初々しい若葉が朝日を受けて黄金色に輝き、風に揺らいでいた。
 橙太は、それを見て心が浮き立ち、一瞬立ち止まり、朝の新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んでいた。その時、何かが橙太の後頭部にコチンと当たり背後に落ちた。痛さは感じなかったが、とっさに振り向いて、後ろの地面を見ると真っ白なバトミントンのシャトルが転がっていた。

「孝公、めちゃくちゃ打っちゃだめだと言ってるでしょう。すみません。怪我はないですか。弟が力任せに打ったら飛びすぎて」

 誰かを叱る女の人の声が聞こえたと思ったら、ばたばた橙太のところに走ってきて、若い女性が慌てふためいて頭を下げ謝った。

「いや。シャトルは軽いから何でもないですよ。びっくりはしましたけど」
「孝公。ぼやっと立ってないで、謝るのよ」
「ごめんなさい」

 中学生と思われる男の子が、姉に促され、遠くからちょこんと頭を下げた。

「いいよ、いいよ」

 橙太は、男の子に手を振って、シャトルを拾い上げ、白い半そでシャツと藍色のパンタロン姿の女性に手渡した。丸顔で明るい顔立ちのその女性は、ひどく恐縮して、両手でシャトルを受け取り、もう一度頭を下げた。ちゃんと善悪にけじめをつける女性の態度に、橙太は、感心すると同時に、好感が芽を出していた。
 それからは、また、その女性がバトミントンをしてるんじゃないかと期待しながら何度か公園を散歩したが、それは、いつも裏切られ、時が過ぎていった。それとともに、しだいにその記憶は薄れ、やがて忘却の彼方に跡形もなく消えていった。

 仕事に追われ、職場の些事に心奪われる日々が続き、翌年の春となった。まだまだ寒さの続く三月のある日曜日、仙台には朝から冷たく強い西風が吹いていた。この日は、ようやく仙台の生活にも慣れてきたので、気晴らしに映画でも見ようかということで、仙台中心部の再上映の映画館に一人で入っていた。橙太がこれまで見た映画は、邦画も見ない訳ではなかったが、圧倒的に洋画が多かった。戦後の価値観の転換で日本のものが色あせる中、やはりまだ見ぬ世界へのあこがれと好奇心が洋画好みの要因となった。
 やがて、時間になり、映画の上映が始まった。次回上映の予告の後、ニ ュースの放映があり、それが終わると、いよいよ俳優、ジェームズ・ディーン主演のアメリカ映画『エデンの東』がスクリーンに映し出された。甘いテーマ曲とともに、父親の愛に飢える長男の役割に、ディーンのニヒルでいじけた感じの演技がぴったりで、橙太の目も耳も心も己の全存在が映画の物語の中に溶け込んでいった。
 映画が終わって外に出た後も、物語の主人公キャルのことが頭を離れず、映像の余韻に浸りながら、橙太は寮に帰っていった。父親の関心を得るためやったことが裏目に出て、うまくいかないとか、涙ぐましい試みが続く、この父親との関係は、キャルとの同世代人として、橙太は、状況は違うものの、自分の抱えている問題とも重なるように思え、心底から共感を覚えた。それに、一時でも、映画の世界に没入すれば、日常のストレスからも解放され、初めて見る西洋の世界が目の前に広がるのだから、橙太にとっては、何とも言えない得難くも有難い、心の癒しとなった。

 独身寮に徒歩で帰る途中に最近できたばかりの宮村ストアというスーパーマーケットがある。橙太は、在庫が間もなく無くなることを思い出し、コーヒーを買うため店に立ち寄った。初めて入った店のため、コーヒーのあり場所が分からず、近くにいた店員に訊き、コーヒーの瓶二つと茶華二袋を買い物かごに入れた。
 最寄りのレジに行き、三人ほど並んでいる最後尾で待ち、やがて、橙太の番となった。

「いらっしゃいませ」

 レジの女性が挨拶をし、橙太の顔を見て、目を見開いた。

「あら。いつぞやは、大変失礼しました」
「えっ。何でしたか」

 橙太は不意を突かれ、まじまじと女性の顔を見返したが、スーパーのグレーのユニフォームに身を包んだ女性の正体をすぐには思い出せなかった。

「ほら。バトミントンのシャトル」

 そこまで聞いて、橙太は、女性の利発そうな眼もとの記憶から、一年前の出来事を鮮明に思い出していた。

「えっ。いや、どうも。怪我した訳でもないし」
「本当にすみませんでした」

 その女性は、もう一度謝ると、後は何事もなかったようにレジを操作し、橙太に金額を告げた。

「有難うございました」

 お金を払い、商品を受け取ると、橙太は、女性の声を後にし、レジを離れた。

 それから時が過ぎて、七月の初め、梅雨が明けて、雲のまばらな青空からは、真夏の太陽が容赦なく照りつけていた。湿度が高いのかことさら蒸し暑く、道行く人々の動作も緩慢で、まるで水を求めてさまよう干潟のヤドカリのような趣があった。
 この暑いさなかの昼過ぎに、仙台駅前のウイズオールという喫茶店で、白い半そでシャツを着た橙太と、真珠色の半そでシャツとベージュのスカート姿をした宮村澄子の二人が、コーヒーを飲みながら歓談していた。この三か月間、橙太が宮村ストアでの買い物を続け、それとなくアピールをし、頃合いを見て、手紙をレジで手渡し誘ったところ、はにかみを見せながらも応じてくれたのだ。

「外は暑くて大変だけど、ここはいいですね」

 程よく冷房が効いていて、居心地がよく、心が和んだ橙太は、澄子の顔を見て微笑んだ。

「そうですね。外と比べれば、まるで天国みたいです。素敵な音楽も流れているし」

 澄子もほっとした様子で、ソフトケーキを口に運んだ。

「僕の故郷、山形県の庄内地方は、海に近いせいか、年から年中湿気が多く、空気が皮膚に絡みつくような感触を感じるけど、仙台では、同じ海の近くでも、風向きのせいかカラッとしてるんですね」
「私の出身地、宇都宮はどうだったか、意識はしてなかったけど、確かに仙台は乾いてるわね。海からの風のせいかしら」

 このようなとりとめのない話で、二人だけの時間が過ぎていった。その時店内に流れていた曲が変わった。まだ橙太の耳に残っている、あの映画『エデンの東』のテーマ曲が流れ出て空気が変わった。映画を見た時の甘い感情がじわじわと橙太の胸に広がっていった。

「今流れているこの曲だけどね、僕が今年三月に観た『エデンの東』という映画のテーマ曲なんですよ。父と兄弟二人の家族の物語だけど、主人公の兄と父との相克が胸に響く映画だったね」
「ふーん。そうなんだ。本当にきれいな音楽ですね」

 橙太が、物語の内容を聞いて欲しかったのに、澄子は、それには気を留めず、目を細め、音楽に聴き入った。そんな澄子を見ながら、橙太は、初めにきちんと言っておかなければとの真摯な気持ちで、さらに話を付け足した。

「父との関係で言えば、実は、僕は長男なんだけど、本当は家に残ってもらいたかったんだろうけど、継ぐべき家業もないし、田舎にいてもどうにもならないと、逃げ出してきたような気がして悔やんでもいるんです。父をはじめ、家族はさぞ落胆したのではと思っているのが現状ですね。これから交際が続くかどうかは宮村さん次第ですが、これだけは始めに知っておいて欲しいと思います」

 余りにも真正直な話に、澄子は、笑顔も忘れ緊張の面持ちで、しばしの間黙り込んだ。店内には、フランスの俳優アランドロンが演じた『太陽がいっぱい』のテーマ曲が流れていた。切なくも悲しい物語で、橙太は、衝撃のラストシーンが思い出され、胸がいっぱいになった。

「私の父はね、病気で会社を辞めて、治った後に栃木県内の地方の町で小さな雑貨店を始めたんだけど、あまり売れなくて、生活は大変でした。何年か後に、一念発起して、宇都宮市内にスーパーを開店したんですね。それがようやく軌道に乗ったところで、兄に譲り、父は、仙台に二号店を開店しました」
「へえ。すごいですね。僕にはとてもできそうもない」

 橙太は、自分の家のひ弱さと比べ、澄子の父の活力に感嘆の声を漏らした。それに対し、澄子は、橙太の反応にお構いなくさらに話を続けた。

「私には、兄が二人と姉それに弟がいるんだけど、父は、スーパーを後一つは作って、息子三人に一店ずつ持たせようと考えているようなんです」
「大変有益な話を聞かせていただきました。僕には、思いつかないような示唆に富んだ話です。形を作って、子供はそれを継ぐんですね」

 橙太は、お世辞でなく本当に感銘を受けて、頷いていた。澄子がどんな思いで自分の家族のことを語ったかは知る由もなかったが、橙太の話に対し、同じように返したのは、お互いに理解を深めようとのシグナルと受け止めるのが自然だった。橙太は、そう理解して、第一関門を通過したと感じて、嬉しく思った。
 喫茶店ウイズオールの店内には、アメリカ映画『避暑地の出来事』のテーマ曲『夏の日の恋』のメロディーが二人の未来を暗示するかのように明るく響き渡った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?