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【連載小説】バックミラーの残影 5の1

                                            残影の3(前編)

 訓練所の訓練を終えて、郵便局に復帰したその一年後に、橙太には、管理部門の仙台郵務管理局への勤務希望はないかの打診が届いた。

「お父さん。仙台の郵務管理局で仕事しないかとの打診が来ているんだけど、行ってだめですか」

 桜があちこちで美しく咲いている四月中旬に、仕事から帰ってきて、夕食を食べた後、橙太は、囲炉裏であぐらをかいてキセルをすぱすぱ吸って煙を吐いている父親の正治に恐る恐る切り出した。

「郵務管理局だって?何やってるところなの」
「東北の郵政業務の運営管理というか、全体の統括的な仕事だよ」
「ふーん。大そうな仕事だね。だけど、おまえは長男だし、家に残ってもらわないと」
「家に残るといっても、田んぼがある訳じゃなし、引き継ぐ家業もないのに、長男だからと言って残れと言われても」

 家とは何だろうとその時、橙太は思った。戦争に負けて、長男が家を継ぐという家制度はなくなったはずだと思ったが、その因習は、脈々とまだ人々の心の中に残っていたのだ。

「お金は、給料もらったら毎月送るからさ、何とかお願いします」

 橙太はあきらめきれず懇願を続けた。
 それを聞いていた母の彩子が口をはさんだ。

「親の働きが悪かったために、子供に嫌な思いをさせるばかりで、大学にも行けなかったんだ。お金も家に入れてくれるというし、あなた、自分のお金でやる分には構わないじゃないの。悪いことする訳じゃないんですから、橙太の思い通りやらせてみたらどうですか」

 父の正治は、何も言わずに、キセルに刻みを詰め込み火を点け、それを深々と吸い込み、鼻から白い煙を出した。その後に
「お金は、忘れずに送ってくれ」と言ったまま立ち上がって、テレビのスイッチを入れ画面に見入った。

 長男が家を継ぐのが当たり前の様なその頃のことで、橙太は、必死の覚悟で家を出ていった。ただただ、子供時代の肩身の狭い思いを晴らすために、世の中で納得のいく生き方を見つけるために、また、自分の本当の居場所を見つけるためにも家から離れて故郷から離れて、己を見つめる必要があった。そんな理由で、橙太には、この時、自分の境遇を疎んじても、親を怨む気持ちが毛頭なかったのは間違いない。
 長男が家を出ると、残る家族にどんな影響を与えるのか、家族はどんな思いでいるのかというようなことを考えるゆとりもなく、自分のことで精いっぱいで、準備もそこそこに、橙太は、単身仙台に向かった。

 それから五か月後の九月に、仙台の訓練所で一緒になった同郷の南里光友が、郵務管理局に転用となって、仙台にやってきた。配属部署は違ったが、同じ建物の中でもあり、その後時々は官署の近くの居酒屋で酒を酌み交わし情報交換した。街路のイチョウの葉が黄色に染まるころ、郵務管理局の仕事にもようやく慣れてきた二人は、居酒屋トンボで祝杯を交わした。

「やあ。うまくやってるかい?」
「まあ。何とかね」

 橙太の問いかけに光友が答えて、お互いの様子の探り合いがこうして始まった。何もかもが初めての体験で、二人とも戸惑うことばかりが多かった。

「職場の雰囲気がまるで違うんで、なじめないなあ。課長、補佐、係長と役職が何人もいてさあ、窮屈で肩がこっちまう」

 光友がしかめ面を作ってぼやいた。

「そうなんだよな。仕事も作業というよりは、文書作りが仕事みたいで、俺が初めて作った文書なんか、前の文書を見て完璧に作ったつもりが、役職者が見てハンコを押すたびに訂正が入って、決済されて戻ってきたのを見たら、俺の書いた元の文は跡形もなくなっていたね」
「えっ。いくら何でもそんなことはないだろう。笑い話じゃないの」

 橙太が、大げさに言うと、さすがに経験の浅い光友でも話の誇張に気付き、一瞬真顔になった。

「ごめん。ごめん。ちょっとおおげさに言ったけど、訂正箇所が多いのは事実だし、なんか自信なくすんだよね」
「いや、いいよ。これから文書作りを始める俺には、とても参考になる話だね。早く訂正箇所が少なくなるように頑張らないと」

 光友は、橙太の話を前向きにとらえ、笑顔に戻り、酒を口に運んだ。

「ところでさ。話変わるけど、俺は長男で、親父の働きが少なくてさ、無理やり仙台に出てきた感じなんだけどさ。やっぱり、長男って家に残るべきなのかな。お金を給料から毎月送ることで、親父は、しぶしぶ首を縦に振ったという顛末なんだよ」

 心を割って打ち明ける相手もなく、つい、橙太は苦しい胸の内を光友に打ち明けた。

「難しい話だね。実は、俺も長男だけどさ、俺のうちは小さいけど酒屋でね、弟がいて、その酒屋を継ぐから兄貴は好きなようにしていいよと言ってくれてさ。親父も特に長男ってこだわっていなくて、頑張れよと送り出してくれたんだ」
「ふーん。いいなあ。違えば違うもんだね」

 橙太は光友の話を聞いて、自分にも末の弟はいるものの、あまりにも違いすぎる境遇に、やっとそれだけ言って黙るしかなかった。一口飲んだビールの苦さは、相変わらずで、手の中のコップに当たった。

「ビールは苦いのに、皆は美味しそうに飲んでるし」
「ははあ。ビールは悪くないよ。そのうち旨いというよ。まあ、せっかく仙台に来れたんだから、人生のチャンスと思って、前向きにやったらいいんじゃないの」

 光友の励ましの通りで、出てきた以上はやるしかないと橙太も思い切り話題を変えた。

 仙台の郵務管理局に、橙太が転任してきて初めての給料を受けとった時、その半分以上の額を家に送ると、父の正治からお礼の手紙が来た。
(六千円確かに受け取りました。ありがとう。毎月必ず送るように願います。お前に家を出られると困るのでしぶったが、出た以上は体に気を付けて頑張り、出世しておくれ。)
 要約すれば、そのような内容だが、橙太は、父の出世という前時代的な言葉に、明治生まれの感性を見たような気がして戸惑いを覚えた。いずれにしても出てきたからには、それなりの覚悟をもってやり遂げるつもりでいたが、曲がりなりにも父に認められたことで、安どの気分が心を満たした。毎月の送金には、必ず父から礼状が来たが、十月分のお金を送った時は、珍しくも父でなく、母の彩子から手紙が来た。漢字が違っていたり、多少読みづらさを感じたが、要点は次のようなものだった。
(送金の六千円受け取りました。有難いです。助かります。この冬は、お父さんは、東京に出稼ぎには行かないと言ってたのですが、知り合いが行くとなったら、いたたまれず出かけてしまいました。玲奈と末治も仕事で家を出ていて、私は、一人で夜は怖いので、近くの親戚の子供に毎晩泊りに来てもらってます。)
 この手紙を読んで、橙太は、何たることかと胸が痛むのを感じた。この頃、日本は高度経済成長の真っただ中で、東京の建設現場では、いくらでも労働力が必要で、地方の農閑期に都会に出稼ぎに行くのは当たり前のことで、お金を得るため、家族は、その寂しさに耐えねばならなかった。
 それから間もなく、家近くの美容院で、住み込みで手伝いながら、美容師の資格を目指している妹の玲奈から手紙が来た。
(お兄さん元気ですか。私は、お陰様で、美容師免許の国家試験に合格できました。本当に嬉しいです。お兄さんも喜んでください。いつか、美容院を開き独り立ちしたいと思っています。それから、お父さんが東京に出稼ぎに行って、お母さん一人で家にいて寂しがっているけど、私が時々家に帰っているから、心配しないでね。尊敬するお兄さんへ)
 橙太は、妹の朗報に、すぐにお祝いの手紙を送り、美容師試験の合格を喜び、合わせて母の面倒を頼んだ。仕事ですぐには、家に駆け付けられないもどかしさもあったが、妹、玲奈の心づかいにほっと息をついた。


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