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【連載小説】バックミラーの残影 

           ラストチャレンジ

 人には誰にも、大小の違いはあるものの、心にぽっかり空洞が開いているように思えてならない。その空洞には、軽重があり人によって色々だが、広くても軽かったり、狭くとも重かったりする。空洞ができた原因はというと、数え上げればきりがないのだが、卑近な例でいえば、大学受験に落ちて志望校は諦めたとか、希望のところに就職できなかったとか、詐欺にあって親子代々の財産を無くしたとか、はたまた失恋したとか、友人に裏切られたとかで、これらは、ほとんどが自己責任の範囲の中にある。一般的には、自分自身が至らぬために起こるのだといえそうだ。
 それに反し、自己責任でない空洞もあるといえるが、それは、もっと深刻なもので、自分ではどうにもならない類のものだ。親に奉公先を決められるとか、女性では親に嫁ぎ先を押し付けられるとか、人権問題の最たるものになってしまう。これらは、時代が遡ればのぼるほど顕著になるもので、娘を吉原に身売りさせるとかの話になってくる。
 心に開いた空洞は、長い人生の中で自然に埋まっていくものもあるが、そうでないものもある。
 仙台市郊外の住宅団地に住む七十八歳の佐山橙太は、生涯にわたってこの空洞を埋めようともがいてきた。人生ももはや終盤だとの思いから、これが最後のチャンスと考え、二年前に、京都の芸術大学通信教育部に入学した。四年間で、一般科目と芸術関係科目を合わせて、六十余りの履修合格が卒業には必須条件だった。
 仕事もない今となっては、時間は十分あるように見えたが、そう簡単にはいかなかったのだ。

「ここがかゆい」

 ある日、妻の澄子が右の腰骨のあたりに指をあてながら訴えた。

「どれどれ。何かダニにでも食われたんじゃないの」

 橙太が、軽い気持ちで妻の腰部を見ると、骨盤に沿っていくつかの赤い発疹が出ていた。

「ふーん。何だろうね。とにかく明日医者に行って診てもらおうよ。あまり指で掻かないほうがいいんじゃない」
「そうだね。でもかゆいんだもの」

 橙太が制止したにもかかわらず、なお、澄子は我慢しきれず指で撫でまわしていた。
 翌日になって、近くの皮膚科クリニックで診てもらうと、先生は、患部を一見するなり、これは、帯状疱疹だとの診断を下し
「この病気は、加齢に加え、ストレスや過労が原因で発症するものですが、早期治療の場合は、二十日余りで治るでしょう。飲み薬を七日分出しますから全部飲み切ってください」と説明して治療を終えた。
 その通りで、発疹そのものは、一か月も経たないうちに無くなったが、澄子の場合は、右腰に猛烈なかゆみが残り、その後長期間にわたって医者通いが続いた。途中からはペインクリニックに変え治療を続けたが、かゆみは消えなかった。
 澄子は、その頃には若干足が不自由になっていたので、自力では病院には行けず、橙太がその都度車で送迎した。足の不具合の原因は、五十代とそれから十年後の二度にわたるくも膜下出血のためだと考えられるが、歩行困難は、徐々に表れてきた。出血は、二度とも温水プールでの水泳中に起きたものだが、最初の治療は、頭部の手術で二度目はカテーテルによるコイルの送り込みで、治療が行われ一命をとりとめた。最初は、血管が少し破れかけた程度だったが、二度目は完全に出血し、すぐに救急車で病院に運ばれ、そこでくも膜下出血と診断されると直ちに、脳神経外科病院に移送された。
 プールから運ばれる途中緊急の連絡が入り、橙太が救急病院に駆け付けると、澄子は意識朦朧の状態でベットに横になっていた。

「澄子、大丈夫か?」
「あなた。すみません」

 橙太が声をかけると、とぎれとぎれの力のない声が返ってきた。それを聞いて、橙太は、最初の発病の後、プールで歩行のリハビリをしていた頃、再度、水泳にのめり込むのを止めきれなかったことに強い悔いを感じた。

 澄子は、前向きな性格で、気性が強く、どんどん前に進む活動的な関東の女性だ。橙太と結婚し、子供ができてからも、家事を切りまわすほか、弟の経営するスーパーでレジ担当のパートとして働き、一家の家計に貢献した。それらの生活が祟ったのかどうかは分からないが、身体の故障はいくつか発生した。一つは、右肩の筋肉に断裂が生じ、整形外科医にリハビリも含め長期間通ったことだ。二つめは、右目の網膜にある静脈が破れ、視野が狭まり、眼科医に通い続けたことだ。三つめは、子宮体がんを患い、大学病院で子宮の全摘手術を受けたことだ。満身創痍とはこのようなことかと思えるほど病を一人で抱え込んだ。

 帯状疱疹の後遺症といえる腰部のかゆみを治療するため、ペインクリニックへの通院を続けていたが、ある日、尾骶骨部分に腫れと痛みがあることから診てもらうと、これは当院の診療の範囲外で皮膚科に診てもらいなさいと断られた。慌てて初診のクリニックに連れていくと、当院では手に負えないとのことで、その場で台原の総合病院皮膚科を紹介され、家には戻らず直行した。病院の診断により、ブドウ球菌に感染していることが分かり、即入院となった。
 入院は六月だったが、それから十二月までの六か月余りの長期入院となり、その間、橙太は、同居の息子雅之と交代で、週に二回ほど洗濯物の交換やペットボトルの水を差し入れたりで、病院に通った。ただ、新型コロナの流行のため、病棟には入れず、看護師からの病状説明のみで面会はできなかった。
 ある日、病院から、気持ちが多少混乱し、家族に会いたがっているとの連絡があり、橙太と息子の雅之が直ぐに駆けつけた。病棟の入り口で、手指をアルコール消毒し、ナースセンターに行くと、澄子が車いすに乗って待っていた。入院時よりは幾分やせたように見えるものの存外元気な様子で、橙太はほっとした。

「あっ。来てくれたのね」

 澄子は、二人の顔を確認すると嬉しそうに笑った。

「病院までは、来るんだけど、コロナで面会ができなくてね」

 橙太が言い訳がましく事情を分からせようとした。

「そうだってね。家でやることがあるのに、帰りたいなあ」
「病気が治ったら、すぐ迎えに来るから」

 息子の雅之が母親の気持ちを察してやんわりと慰めを言った。
 その後、看護師が車いすを押し、面会コーナーに案内してくれたので、しばしの間そこで言葉を交わした。色々話しているうちに澄子がおかしなことを言い始めた。

「あなた。おとといの夜、うちの会社のさっちゃんと病院で仲良くしているのを見たのよ」
「何を言ってるの」

 橙太は、突然の話で、何のことか分からず澄子の顔をまじまじと見つめた。

「先生も見ているんだから。嘘じゃないよ」
「私は、夜には病院にいないんだから、それにあんたの会社の女性なんて知らないから」
「嘘は言わないで。私見たんだから」

 いくら抗弁しても、理を尽くしても、澄子は自分の想念を変えようとはせず、ますます言いつのった。これは、確か入院時に先生から説明があったのだが、抗生物質を点滴しての病院生活中にせん妄が起きる場合があるということで、ああ、それなんだと困惑の中で思い至った。せん妄とは一時的な意識障害で妄想などを伴うと聞かされていた。

 妻の澄子の入院騒ぎで、橙太の学業はどうなったかというと、妻が自宅にいないということで、直接対応する手間が省けて、むしろ時間的にも気持ちの上でも集中できるようになった。妻の病状は心配だけれども、学業に関しては、怪我の功名とも言え、十二月の退院まで、ほぼ計画通りに四十科目の履修を終え、所定の単位を取ることができた。とは言っても、そんなに簡単なものではなく、不合格があり、再試験を受けたりと、高校以来途絶えた、勉学の取り組みは容易ではなかった。実のところ、四十年にわたる郵政関係の公務員として、定年退職まで東北各地を転々としたが、長年の間に、勉学の意欲は仕事にすっかり吸い取られ、乾いた海綿の様に屑籠に放り込まれた感じが胸の中を去来した。

 その間、澄子の病状は、抗生物質の点滴によりブドウ球菌の感染は治ったものの、入院の発端となった尾骶骨部分の腫れものが褥瘡と判明し、中の膿を取る手術を受けるやら大変なことになった。これはなかなか治りにくい病気だといわれ、入院期間が長くなった原因でもあった。
 ようやくこの褥瘡の治療が終わり、退院して家に帰ってきたのは、十二月の下旬だったが、介護タクシーで寝たまま運ばれ、介護用品業者からレンタルのベットに病み衰えた体を横たえた。入院前の体重から五キロも減り、からだ全体の張りもなくなった感じでとにかく弱弱しかった。ベットで起こして縁に座らせても姿勢を保てず、すぐに倒れてしまう状態で、橙太は、暗澹たる気持ちになった。足の筋肉も衰えたのか歩けなくなっていたし、そのためトイレに行けないことから、尿管は付けたままで、バッグにたくわえる方式となっていた。大便は、橙太と息子の雅之との二人がかりで、澄子を車いすに乗せトイレに運び、用を足す手はずとなった。
 在宅介護については、ケアマネジャーの村越さんと相談の上進めたが、何事もぶっつけ本番の感じで不安を感じずにはいられなかった。

「家族での介護は、なかなか大変だと思いますが、何かあったら相談してくださいね」
「はい。本来的には、家族で見るのが当たり前だと思いますので、やってみます」

 村越さんが心配して言ってくれたものの、橙太は、息子の雅之が協力するとの意向でもあるし、とにかく自宅で介護しようということに決めたのだった。幸いにも、県外に就職していた息子が作家業を目指して仕事をやめ、家に帰ってきており、売れない作家の駆け出しで、本も出版しているのだが、何よりも同じ家にいるのだから、頼りになるのは間違いなかった。雅之の考え方としては、基本的に家族の助け合いを理想としており、核家族化が始まる前の大家族の家族愛を信奉していた。そんな息子に、橙太は、有難く思い、心強さも感じていたのだ。
 医療は月二回の訪問診療を受けることにし、その外に週二回の訪問看護と同じく二回ずつの訪問リハビリと訪問入浴サービスもお願いし、自宅での療養生活に入った。


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