袖触れ合うも多生の縁
猫を二匹飼っている。
ペットショップのガラスケースでさんざん人に眺められたあと、店先の大型ケージに移されて「最終セール!」の赤札がついていた。
育ちすぎて売り物にならなくなる前に原価割れであっても良い、とにかく売れて欲しい。そんな気持ちで並べてるんです。
そういう売り手側の声が聞こえるような悲壮感とは裏腹に、のんきにお腹を出して寝そべっている二匹なのだ。
売り物にならなくなったら、この猫たちはどこへ行くのだろう。
西側から戻ったばかりの私はまだ、日本の諸々システムに考えが行き届かず、ただただ彼らの先細りになる薄暗い未来しか想像が出来なかった。
しばらくケージの前で彼らを眺めていたけれど、世間でよく耳にするような「目が合った」だとか、「ピンときた」などという啓示めいたものはどこからもやっては来ない。ひたすらに「気の毒な年老いた売れ残り」という設定を、50を過ぎた自分に重ね合わせてその場から立ち去れないだけである。
私の人生の中で猫の居なかった時間は少ない。いつも近くに猫が居る。
家猫だか外猫だかわからないような風来坊もいたし、やけに頭の良いのもいた。やたらにすり寄ってくるのもいれば、いつもタンスの上から人を見下す観察傾向の強いのもいた。みなどこかから縁あって譲り受けたもので、支払いのあとに箱入りで受け取ったことなどない。
長年のくせで「領収書ください」と言った後、どんな勘定科目にするのだ。と、つまらぬ習慣に失笑があった。
銀鼠の美しい毛並みを持つシャルトリューという血統を持つ彼らの母国は、私が14年間住んでいたフランスだと言う。
衝動買いした彼らと私にどんな御縁があったのかと、ろくに慣れてもいない二匹を眺めてすごしてきたけれど、なるほど、そんなところに我々の縁はあったのだ。
ひとでもものでも動物でも、縁というのは必ずどこかについているのだ。
おもしろいものだと思う。