早いもので東京にもどって4年が経った。その間に3回入院をして2度、心を患った。 パリに14年住んでいたときは、一度も身体を壊すことなどなかったから、母国帰国4年の間に崩した我が身に心からの感謝がある。 脳天気に楽しく生活をしていたようで、若さもあったろうけれど、きっと気持ちも身体も張り詰めていたに違いないのだ。 どんな小さな物音にだって反応して、すぐさま目を覚まし耳をすませて息子達の寝室を覗いてから自室に戻る14年間であった。 いまではむすこ二人は独立して、私も都心のアパート
敬老の日。老いを敬う、と書くのかぁ。しみじみ日めくりカレンダーの赤色文字を眺める。知らなかったわけじゃないけれど、老いという言葉に親近感を持つ年齢になって「私の老いは敬うに値するのか?」と考えればなんだかこうしちゃおられん!とひとり慌てている。
辛いとき、上を向いて歩こう。を頭の中でひとり歌う。声に出して歌えば辛くて崩れ落ちそうになってしまう。でも頭の中でうたっていると、坂本九ちゃんがいっしょに笑顔で歌ってくれる。 彼が御巣鷹でなくなった2週間後に母は長患いを終えて天へ登っていった。母に会いたい。と思わない日はない。
次男がバイトに帰りに立ち寄ってくれ、おまけに夜は宿泊するという。 たちまち私は嬉しくて、体調不良も吹っ飛ばしていそいそ台所へ立つ。 次男がずっと横にいてくれて、とても優しい態度で接してくれた。玉ねぎの薄切りまで手伝ってくれた。 思わず幼少期の彼が重なって、つい昔の話をして聞かせてしまう。 そんなことよく覚えていたね!僕も今まで忘れてたよ! と、母が話す自身のエピソードだか、私のつまらぬ記憶力にだか。彼は声をあげてあははと笑う。 あゝ、我が子よ。 しみじみこの二番目の息子を
見ず知らずの子どもといっしょになって地面に散らばった小銭を拾い集める夢を見た。 私は拾った小銭の半分をその子に渡し、残りをどこか事務所のような部屋へ届けた。多分「拾遺物の届け出」をしたのだと思う。 あまりにもリアルな夢だったので、目が覚めたときにぬかるんだ地面に触れて汚れた両手のひらを真っ先に確認したほどだった。 最近は見た夢を覚えていることが多いし、夢の内容もわりかし現実感が強くて、目が覚めるとたいていの場合すこし混乱する。 年のせいか?吉兆なのか?来世が近いのか?
やはり気になって父に電話をした。 喜ばしいことに電話に出てくれて、元気の確認が取れて安堵。 声を聞いてこんなに嬉しい人が居る人生の、なんと嬉しいことか。 彼岸の頃にそちらへ出向く旨伝えれば「はいよはいよ」と気楽な返答だ。 思い詰めたり、気を揉んだりするのは、私の持つ癖の中でもとりわけ厄介なやつだ。 これをどうにか飼い慣らそうと頑張った時期もあるけれど、今となっては「それはそれで仕方がないじゃないか」と、とうの昔に諦めている。 それも抱えての私だもの。大事に抱えているしかなかろ
2024年1月6日 さっき篠山紀信さんが亡くなったことをYouTubeで知った。 1月4日の出来事、と聞いて 嗚呼 となったのは、その日私は篠山紀信氏の事務所の前で佇んで、 そういえばここは篠山紀信氏の事務所なんだよなーと何故か見上げていたから。 事務所前のミッドタウン庭園の紅葉を撮影したり、なんだかあのあたりで妙にモタモタしていたのだ。 シンクロニシティだと思う。 日々、三つくらいのシンクロニシティがあり、もうこのまま死んでしまうのか?とさえ思えてしまう。 気持ちが
なるほどなあ。と思う。居酒屋の化粧室にかけられた日めくりの数字の下にそうあった。 何でも人に聞く前にしっかり探して聞くのは礼儀であろう。 少なくとも私はそんなふうに思うから、尋ねることは最後の最後まで取っておいて先ずはがさがさうろうろと捜して廻るような人生を送っている。 しかし最近では「はて?あれはどこへしまったのだ?」というところが出発点になるからガサガサウロウロする前に「どこにしまったとおもう?」と、自問自答しなくてはならず、捜し始めるまでに大変な時間がかかってしまう。
とはいえ3時に目が覚めるというのはいかがなものか。 豆腐屋でもパン屋でもないのにこんな時間に覚醒するとは。 身体を壊して療養中の身であるため、仕事は「基本在宅」というスタイルを昨年12月より許されている。 しかし1週間に1度、上長とのミーティングがあり、それは必ず対面で。と言う条件が年明けに出されて驚いた。 なんだかすっかりいろんなことがほとほとばかばかしくなってきて「3月いっぱいで辞めます」と先週会社へ報告をした。 受理されているのかどうかは謎ではあるが。 辞めるんだから
気持ちが落ち込む原因がなんであるかは正直よくわからない。いわゆるトリガーと呼ばれるスイッチが入って自身の制御が効かなくなるわけだけれど、わたしはそれがなんだかまだわからない。 特定の天気、場所、人間、天気、のあたりまでなら思い当たることがないわけじゃない。だからそういうトリガーについては対応準備と対応策がいくつかあるので、あまり慌てることはない。 しかし突然やってくる鬱の緞帳にはまだまだ経験がたりないのか、旨く対応できず押しつぶされたように遣られてしまう。 憂さを晴らす。とい
一歩も外出しなかったゴールデンウイークが明けて、今日は千葉の房総まで出かける。 気持ちが塞ぎ込んだとき、努めて外出するようにするのが私の持つ少ない処方箋の一つだから。 どうにも気持ちがやりきれないときは靴を履くのも億劫で、玄関に茫然と佇んだりもするけれど、足下に並ぶ子ども達の靴を見て奮起する。 母は強い。 自分にそんな強さがあったのか。感心する底力があることを、私は子を持つまで知らなかった。なにをするにも楽なほうへと流されがちで、たいして努力もしないまま生きてきて、縁があって
心を病んで一番つらかったのは「不眠」であった。と、自分で言ってからすこし違和感があって、ずっとそのことを考えた。 もちろん不眠もつらい症状であったけれど、それじゃない、なにかほかのものから押しつぶされるような圧迫があったはずだ。 そう考え続けて思い当たったこと、それは、「心の不調を誰にも相談できないでいたこと」だった。 頭が痛い、お腹が痛い、風邪っぽい、というのは気易く人に言えるのに、もやもやした気持ちだったり、突然涙が流れてどうしようもなくなる、などということは、なにかはば
心を病んで一番つらかったのが「眠れない」ことであった。 横になれば人は休むのが自然で、焦燥にかられて冷や汗をかくなどあり得ないのだ。 なのにそんな日が幾日続こうと、まだ当人はそれが「病」だと気がつかず、市販の睡眠改善薬だったり、ぬるい湯に浸かったり、温めた牛乳をのんでみたり、できるかぎりの抗いを数ヶ月ほどやったのだから、その根気は見上げたものだ、と否定はしない。 パリに住んでいるときに、同じ年の近しい知人が「うつ病」で苦しんでい、当人よりも、彼の家族や友人がひどく心を痛めて
猫を二匹飼っている。 ペットショップのガラスケースでさんざん人に眺められたあと、店先の大型ケージに移されて「最終セール!」の赤札がついていた。 育ちすぎて売り物にならなくなる前に原価割れであっても良い、とにかく売れて欲しい。そんな気持ちで並べてるんです。 そういう売り手側の声が聞こえるような悲壮感とは裏腹に、のんきにお腹を出して寝そべっている二匹なのだ。 売り物にならなくなったら、この猫たちはどこへ行くのだろう。 西側から戻ったばかりの私はまだ、日本の諸々システムに考えが