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喜びのことについて

休み明けの出勤日。
ちょっと忙しい。
 
わが職場には、本当にいろんなことが起きる。
わたしが感じやすい性格なだけかもしれないけど、面白いことも、そうじゃないこともたくさん起こる。みんなそうか。
日常ってすごい。
続いていくのに違うだなんて。
それが生きている間、際限なくふくらんで続いてゆくなんて。

すべてを、書いて、描けないものを書く努力をして、言葉をつくして、つくせないものを探す旅。
小説を書く。文章を書く。
とにかく、誠実でいたい。頭を柔軟に、凝り固まった考えが障壁なら、それを自ら溶かすことも必要だ、と思った一日。ほかにも、たくさん。考える。感じる。悲しくて愛おしい、生活が続く。

昼休み、万条由衣さんのNOTEを読んでいた。
この世の喜びよ、に関することが書かれていたので気になったのだ。

 部屋を模様がえしたのは、今年のはじめごろだったからわたしはまだ、縦のままの部屋を分断するように配置したベッドのそばで、2023年3月号の文藝春秋を読んでいた。
 
 ベッドに突っ伏して、鼻をすするわたしに、家族が「どうしたの?お母さん」と声をかけてくる。



『この世の喜びよ』井戸川 射子 

 

 芥川賞の候補がささやかれ、発表になり、受賞会見を見守れるときは見守り、受賞者がきまると、胸をなでおろし、いつかわたしもそちら側にそちら側に、と願うみたいに夢見るみたいに過ごして、でも、生活ってそっけないから、わたしに振り向いてくれなかったり、小説なんか書く時間全然なくて、なんなら、あんた、小説書いてていいの? 自分の家庭の事、もっと真剣に考えないと、「家族が共倒れになるよ」と、きっと誰かに言われたはずで、でも、自分の楽しみを見つけなさいって、小説をただ書きたいから、朝は早く起きて、夜は早く寝る生活がしたくて、でも、家族の日中の話はどうしても聞かなきゃ気が済まないし、すると家事がまわらず、頑張って深夜になったりして、とにかく、床で寝たり、朝方まで起きている家族が、悲しかった。
 だから、小説にくらいつくために、本当に、ちゃんと、小説に本腰を入れないとパソコンの電源つけないと、置いてあるちゃちなテーブルは、黒色で静電気を吸うから、埃がすぐたまるのだ。木ではなく、プラスチックなのかもしれない。
 プリントやら、給料明細をつづったり、自宅なのに、仕事場みたいな事務作業を、車を持っていたときは重宝した、買い物かごに突っ込み、今それは自転車ではスーパーなんかに持っていけないから、家族の洗濯物を畳んで運ぶときに使ったり、もうそれもダサイから部屋に置かないでと、わたしの部屋に押し込められ、そこに入っているのは、過去のおたよりや、家計簿をつけようとしていたレシートで、大事な意味のある紙束なんだけど、まったく興味がわかないから、まずはそれを整理しようと思って、それから小説を本腰いれて書きたいな、書いてやると、奮起しても、疲れて朝になっているか、もしくは、疲れはてて夜になっているかのどっちかで、その中で、心の中で泣いている数か月を過ごし、毎日誰かに報告したり電話したり、現状をどう伝えてよいかわからない中で、とりあえず笑おうと、くだらないことばっかり考えて、それも素気無くされるから、私の母に、「とにかく、あんたはお母さんをきちんとやりなさい」と言われたら、昔の小さい時の、朝は、自分で朝ごはんを用意していたなとか、聖書の朗読を寝ながら聞かれたな、とかくだらない些細な棘が、自分の頭にまだチクチクしているのを実感する。

この世の喜びよ。

仕事の終わがけに、疎通の問題で、すこし悲しいなと思うことがありながら、バス停へ急ぐ。

途中、乗り込んでくる、小さな子供連れの親子が二組くらい。結構な確率で会うけれど、小さい子をみると、必ず自分の子育てを思い返す。
 もっと、やさしくして、もっと愛情のかけ方をちがうくして、怒鳴ったり脅したり、やりかたが違っていたのだ。必死だったのに。まあ、大げさに言えばそういうことだ。
 想像している母の像とは乖離し続け、必死なのに違う方向へ暴走している、過去のわたしがいる。

暗くなるまで公園で遊んでいたって、良かったのに。
飽きるまで、砂を触らせて良かったのに。
大好きと抱きついてきたとき、いつでもどんな時でもそれ以上に返してあげられたらよかったのに。

でも、その後悔を、わたしは子供にぶつけてしまったとき、
「お母さんは、わたしたちの成長を失敗だったと思ってるの?」と言われたのだった。
 
小さな子の、高く突き抜ける鳴き声と、静かにでも、制圧するようになだめたり、脅したり、なにかと引き換えにしたりしてバスの中をやり過ごす親子を、わたしは見ていた。
 この時間なら、保育園の帰りだろう。
知ってる。全部、そうしてきたから。
 わたしの悪い癖だ。みんな、ひとりひとり違うのに。もっと、想像力を働かせなければ。そう思う。

改めて、少し昨日の夜読み返す。
以前より、わたしは落ち着いたように思え、冷静に読むことができた。


朝のうちにすべてを書ききることができないので、また今週末にしっかり読んで、万条さんの読みの深さや、作品を語るときの敬意について、書きたいと思う。


 この世の喜びよの本文から、引用する。

娘たちだって育ち終える前は、その時その時で、抱きしめるのにちょうどいい大きさだった。

ああ、そうだった。
今でも、わたしたちは、おやすみのハグをしたりしなかったりする。

これが息子なら、別の感覚があったのだろう。


まだ、夫とわたしと、子供がひとりだったころ。

友達と出かけて、帰ってこない静かな部屋で、わたしは子供をぬいぐるみのようにぎゅううっと抱きしめて、もう子供さえいてくれたらいい。しっかりそう思ったのだ。
まだ、歩けないぷくぷくの弾力を、わたしは、守っているのか守られているのかわからず、包み込んでいたのだ。

だから、この小説を読むには勇気が必要で、わたしに勇気が蓄えられる週末に、もう一度。



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