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第二十七話 青い鳥

もくじ 3,088 文字

「おうっ……うえええっ」
 二つ目の石を投げようとしたとき、川下で激しい空えづきが聞こえた。振り返ると、小林がまたマサカズの背中をさすっている。
「全部出しちまえ。そうすりゃ楽になる」
「うげええっ、おうえっ」
「がんばれ、あと少しだ」
 真一も経験があるが、背中をさすってもらうと、確かに吐きやすい。
「いいぞ、その調子。もうひと踏ん張り」
 小林の声に熱がこもる。
「何だかあいつ、産婆みたいですねえ……」
 岡崎が他人事みたいに言った。
「生まれてくるのは、さっき食ったアイスとスナック菓子だけどな」
 真一も淡々と返す。
「うわあ……想像しちまった」
 舌を出しながら顔を歪める岡崎。だが、すぐ表情を改め、
「今後どうします?」
と訊いてきた。真一は、手の中の石をもてあそびつつ、
「うーん、戻るにしても、道が平らになるまでけっこうかかるし……。かといって、このまま進んでもなあ……」
 悩ましい問題だ。山道に入ってから、ずっと対向車を見かけなかったので、行き止まりの可能性もある。仮にどこかへ抜けられるにしても、あとどれくらい走ればいいのか……。
「ですねえ……」
 岡崎もあぐらをかいたまま、頭を垂れた。
 結局、最終的な判断は、マサカズに任せるしかなさそうだ。ちなみに、携帯は圏外。知り合いに頼んで、地図を見てもらうことはできない。
 気を取り直して、石を握り直す。さっきは一回しか石を弾ませることができなかったが、今度は距離を長めに取って、川上に向かって投げてみることにする。
 川面の乱れが少ないとろから平瀬を狙って、腕を振り抜く。矢のように低空を疾駆した石は、青淵の表面を削って大きく跳ね上がった。流れに逆らう形になるため、反発力が大きい。長い滞空時間を経て、再び川面に接触すると、石は立て続けに跳ね跡を刻みつけて、最後は転がるように水中に吸い込まれた。
 今度は、水切りらしい光景になった。昔、石が跳ねた回数を、友達と競ったことを思い出す。
 足元には、ちょうどいい大きさの石がたくさん転がっている。
 また一つ拾って、川面と向き合う。
 浅瀬の水は、澄んだ黄金色。深場へ向かうにつれ、鮮やかな浅葱色に取って代わられる。大物が潜んでいそうな思わせぶりな色だ。上流に管理釣り場があれば、丸々太った落ちマスが居着いている可能性もある。大きなニジマスなら、一匹で二人分、二匹ならちょうど四人分の胃袋を満たすことができる……。
 空腹ゆえ、ついそんな思考が働いてしまう。
 だが、残念ながら、竿がなかった。普段から、車に釣りの道具を積んでいることが多い小林だが、今日に限って、ラゲッジは空っぽだった。
 仕方がないので、また石を投げることにする。体を動かしていれば、少しは空腹感が紛れるだろう。
 アンダースローで腕を振り抜くと、さっき以上にたくさんの跳ね跡を刻みつけることができた。透明な忍者が、水の上でステップを踏んだみたいだ。忍法――何という術だったかは忘れてしまったが。
 また一つ石を拾って投げる。拾っては投げ、拾っては投げ……。
 無心に腕を振り続けていたら、上流から流れてくる丸っこい物体に気づいた。
 注視している間に、それはどんどん近づいてくる。
 大きさは夏みかんくらい。形は半球。色は黒――ただ、瀬波に煽られるたび、ちらちらと赤い色も覗く。
 手前に迫ったところで、岩の狭間に吸い込まれ、直下の落ち込みに消えた。
 数秒後、泡立つ水面の中心に浮かび上がって、正体がわかった。
 ――何で、こんなところにおわんが?
 再び流れに乗ったそれを見つめ、真一は首をひねる。
 上流でキャンプでもしているのか。あるいは、不法投棄されたゴミが流れ出したとか。
 だが、キャンプにお椀なんか持ってくるだろうか。もっとふさわしい用具があるはず。不法投棄されたゴミが流出したにしても、お椀一つだけというのはおかしい。
 それとも、古式にのっとってナントカ汁を食す、といった催しでも開かれているとか……。
 お椀はすーっと音もなく、目の前を横切っていく。落ち込みの先の川面は、のっぺりしているように見えて、流芯の流れだけは速い。
 何の変哲もないお椀だった。目立った傷はないが、新品という感じでもない。ごく普通に家庭で使われているお椀。真一のアパートのキッチンにも一つある。ほどなく川下で白瀬に捕まって、もみくちゃにされながら、視界の彼方へ消えていった。
 釈然としない思いが残るも、まあいいか、と割り切って水切りを再開する。
 何度も石を投げたことで、昔の勘が戻ってきた。コンスタントにたくさん跳ね跡を刻むことができるようになっている。もっと跳ね跡の数を増やしてやろうと思って、気合を入れる。
 無心の時間が過ぎていく。水切りに熱中していたら、空腹はあまり感じなくなった。火照った体に、渓谷の冷たい空気が心地いい。
 右腕が重だるくなってきた頃、岡崎が真一の名を呼んだ。
 振り返ると、小林とマサカズが川原を歩いていた。小林に寄り添われつつも、マサカズの足取りはしっかりしている。真一の視線に気づいた小林が、頭の上でOKのサインを作ってよこす。どうやら、大丈夫のようだ。真一は水切りの石を捨てて、岡崎のいる場所へ戻った。
「すいませんでした。先を急ぎましょう」
 全員集まったところで、マサカズが頭を下げた。ハキハキした口調と裏腹に、顔はまだ青白い。歩き方こそしっかりしていたが、本当に大丈夫なのか。ここで無理してまた具合が悪くなったら、元も子もない。今度こそ、昼食はお預けになってしまうだろう。岡崎の機嫌の悪さにも、ますます拍車がかかる。
 だが、マサカズはきっぱり、大丈夫です、と言い切った。過去に車酔いになったときにも、吐いたら楽になったという。今はもう気分もいいし、体も軽い。ほら、このとおり、とみんなの前でよくわからない体操をしてみせた。
 真一と岡崎がそれでも信用できずにいると、一人で川原と道路を結ぶ小道へ向かい始めた。何歩かの所で振り返り、ほかの三人がまだ同じ場所に留まっているのを見ると、やれやれ、と息をついて、挑発的に口の端を持ち上げた。
「おう、行くぞ、岡坊」
「こいつ!」
 岡崎が猛然と走り出し、マサカズが身を翻す。小道の入り口に二つの背中が吸い込まれ、浅い新緑に染まった谷斜面を、笑い声と怒鳴り声が駆け上っていく。
 軽口を叩けるくらいなら、本当に大丈夫なのだろう。
 小林に続いて、真一も歩き出す。
 新芽が芽ぐむ坂道は、陽射しをよく通し、林床まで明るい。足元から立ち昇るひんやりした土の匂い。歩くたびに聞こえる、乾燥した落ち葉の音。渓谷は、まだ随所に冬の気配を残している。ただ、この時期ともなると、やはり山の中でも春の勢いが勝る。何気なく小林の車を見上げたら、ガードワイヤーの下に、黄色いヤマブキの花が滴っているのが見えた。さっき釣りのことを考えたが、釣り人にとっては、シーズンの幕開けを告げる花だ。
 道が鋭角に折り返す場所で、りんと渓水に鳥の声が冴え渡った。自ずと足が止まって、落ち葉の吹き溜まりからあたりを見回す。すると、谷間に突き出した小枝の先に、青い小鳥が止まっていた。こちらの視線に気づいたのか、もう一度、清らかな歌声を聞かせる。
 青い翼と白い胸が特徴のこの鳥はオオルリだ。見た目もさえずりも美しく、ウグイス、コマドリとともに、日本三鳴鳥に数えられている。
 メーテルリンクの青い鳥は、幸福の鳥だった。
 その青い小鳥は、川上側のこずえに止まっている。
 マサカズの選択は、正しいのかもしれない。

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