第一話 闇の中
もくじ 3,057 文字
遠くの笑い声が急に迫ってきて、真一は目を覚ました。薄く開けたまぶたの先で、淡い光が部屋の天井を染め替えている。赤、青、白、黄色……ランダムに移り変って、まるで幻灯を眺めているようだ。
笑い声はテレビからだった。どうやら点けっ放しで寝てしまったらしい。顔がちかちかするほうに身をよじり、ベッドの下に手を伸ばしてリモコンをつかむ。胸元に引き寄せると、薄い夏かけ布団の下で楽な姿勢を作って、画面を見つめた。
やっている番組で大体の時間がわかる。夜の八時台だろう。画面の中で、何事かまくし立てている若い男は、近頃よく見るお笑い芸人の片割れだ。名前は……ど忘れして出て来ない。男は機関銃みたいにしゃべくり、言葉の弾丸が切れると、ステージの前のほうに駆け寄ってきて、客席を一喝した。だん、と床を踏み鳴らす音とともに、スタジオ全体が笑いの渦に包まれる。
起き抜けの頭に、この手の番組はうるさすぎる。押し寄せる笑いの波に抗うように、真一はチャンネルを替えた。
と、いきなり男の叫び声。アップにされた五十がらみの俳優が、胸の前で白いボードを叩いている。わかりますから、わかりますから……司会者と女性アシスタントが必死に宥めるも、怒りは収まらない。どうやら、設問に不具合があったようだ。ただ、そう主張しているのは男だけで、ほかの出演者たちは、呆れ顔や苦笑いで男を見つめている。男の怒りはさらにヒートアップし、席を立って司会者に詰め寄ろうとしたが、隣のボックスに座っていた演歌歌手が、いいかげんにしろ、と怒鳴って、どっと笑いが場を洗い流した。
笑いの要素を取り入れたクイズ番組。騒々しさに辟易して、またチャンネルを替える。
歌番組、プロ野球、と続いて、トーク主体のバラエティーのところで指が止まったが、べつにその番組が見たいわけではなかった。単に替えるチャンネルがなくなってしまっただけだ。
閉め切った部屋の中、15インチのテレビ画面が、四角い太陽のように輝いている。派手なスパンコールの衣装を着た司会の男と真一は、まったく繋がっていない。虚ろな瞳の先で、男はぜんまい人形のように勝手に動き、一方的にしゃべり続けている。大げさな身振りも、きらびやかな舞台セットも、真一にとって、まったく別世界の出来事だ。
やがて、リモコンの先端を画面に向けた。電源ボタンを押すと、ブラウン管でブツンと音が弾け、騒がしい人間たちは一瞬で消え失せた。暗闇に、うっすらと画面の白さが残る。
――ああ、そうだ。
ビデオデッキに、映画のテープが入っていることを思い出した。国道沿いの大型レンタル店でヒマつぶしに借りたものだが、アパートに帰った途端、観る気が失せてしまい、そのまま一週間ほったらかしにしていた。コンビニの夜勤を終えて帰ってきた今朝、返却期限が今日までと気づいて、半ば義務を果たすようにデッキに挿し込んだのだった。
映画の題名は、「アリゾナ・ドリーム」 という。その名の通り、物語の舞台はアメリカだが、パッケージには、制作国フランス、と書いてあった。1992年の作品で、93年にベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞している。同映画祭は、カンヌ、ヴェネチアに並ぶ三大映画祭。あまり映画に詳しくない真一でも、名前くらいは知っている。空のパッケージは、日焼けして青ずんだタイトルロゴがひしめく旧作の棚に埋もれていた。92年の作品だから、映画館での上映はとっくに終了しているにしても、97年の今では、街のレンタル店でもこんな扱いだった。もう少ししたら、店頭の処分品セールのカゴに突っ込まれているかもしれない。
映画について、あらかじめ知っていた情報は何もなかった。雑誌の記事を読んだとか、口コミで評判を聞いたとか、そうしたことは一切ない。適当に棚を漁って、たまたま手にした作品に、何らかの肩書きが付いていたから借りてみたにすぎない。
映画の主人公は、アクセルという名の青年。二十三歳という年齢は、奇しくも真一と同じだ。ニューヨークの漁業局で働いている彼は、「小川の魚が大海を目指すように」 故郷のアリゾナを飛び出してきた。ただ、新天地で見つけた仕事は、魚に標識をつけて海に放流するという単純なもので、実入りはあまりよくなさそうだった。
ある日、アリゾナから訪ねてきた親友のポールに、叔父の結婚式に出席するよう催促される。はじめ、気乗りしなかったアクセルだったが、一緒に酒を飲んでいるうちに気持ちが変わって、ポールの車に乗り込んだ。バックシートでうたた寝している間に、都会の喧騒は遠くなり、ルート66と思しき道を西へ西へ――夢の中の風景だが――と進んでいった。
叔父のレオは、時代遅れのアメリカン・ドリームを信じる無邪気な男だ。彼の父親は、その昔、アリゾナでキャデラックの販売権を取得し、「月に登れるほど車を売りまくる」 ことが夢だったらしいが、得意気にその話を語るレオもまた、父と同じ気質を受け継いでいると言っていい。
レオの仕事は、キャデラックのディーラー。魚の生臭い臭いを漂わせて帰郷した甥を見るなり、お前を浮浪者にはさせないからな、と言って、強引に自分の店で働かせることにしてしまう。実は、アクセルとレオの間には、不幸な過去があった。アクセルの両親はすでに他界していたが、それはレオが起こした交通事故が原因だった。アクセルに負い目のあるレオは、おせっかいながら、アクセルの将来を気にかけていたのだ。
アクセルがレオの店で働き始めてほどなく、美貌の母娘の客が訪れた。奔放な性格の母はエレイン。彼女に反感を抱く娘はグレース。エレインには空を自由に飛び回りたいという夢があり、グレースは、生まれ変わって亀になりたいというおかしな願望を持っている。アクセルは二人と仲良くなって、草原の一軒家で奇妙な共同生活――ときどきポールを交えつつ――を開始することになるのだが――。
その後の展開は、適度にユーモアが効いていて、吹き出してしまうこともあった。ただ、風変わりな登場人物たちが織り成す物語は、空笑い的な寒々しさも感じさせ、どちらかといえば、こちらのほうが映画のトーンを決めていたと思う。
後半はどっと眠気が押し寄せ、よく覚えていないところも多い。ただ、突然の銃声に驚いて、偶然観ることになった最後のシーンは、はっきり胸に焼き付いている。
おそらく、今後も忘れることはないだろう。
そのシーンは、廃業したレオの店で、アクセルが眠りにつくところから始まる。
カメラが入り込んだのは、アクセルの夢の中。
アクセルはレオと二人、なぜかイヌイットの格好で釣りをしている。アリゾナから遠く離れたアラスカ。氷に穴を空けて狙っているのは、オヒョウという魚だ。極寒の海に生息するこの魚は、日本でも北海道や東北の一部で獲れ、漢字で 「大鮃」――つまり、大きなヒラメ――と書くが、実際にはカレイの仲間だ。たまに、布団みたいな巨大な個体が水揚げされて、話題になることがある。映画では、印象的に空を泳ぐ場面が何度かあった。
二人の会話がある部分に達したとき、頭の中で、ガチャッ、と冷たい音が鳴った。心に枷がはめられた気がした。見たくないものを見せつけられたと思った。
「全部、台無しだよ……」
イギー・ポップのテーマソングが流れる中、虚ろな声がこぼれた。
映画は、唐突な終わり方をする。
未解決の問題を、観る者に押し付けるようにして。
さっと預けて、逃げ去るように。