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第十五話 シジュウカラ

もくじ

「ビッグになるんだろ」
 唐突に真一は切り出す。いつかの飲み会で、こいつが言っていたことだ。
 もっとも、そのとき、真一はほかの仲間との会話に夢中になっていたから、松浦が何をどうビッグになりたいのかは知らない。ただ、隣のテーブルからしきりに、ビッグになる、ビッグになる、という声が聞こえていたことだけは覚えている。
「はあ?」
 要領を得ない声が降ってきたが、構わず続ける。
「ふと思ったんだよ。この状況に、お前の未来が暗示されてるんじゃないかってな。浮かれて、神輿みこしに担がれて、次はどうなる?」
 真一の頭にあるのは、とある漫画のストーリー。店の休憩室に全巻揃っていた単行本を、松浦は好んで読んでいた。
「お前の好きな格闘漫画にあっただろ。人間なんて薄情なもんだ。誰かを神輿に担いだと思ったら、次の瞬間には、崖から神輿をドボンだ」
 地道に勝利を積み上げ、王座に上り詰めた主人公。しかし、富と名声を手にした途端、鼻持ちならない態度を取り始める。練習には身が入らず、関心があることといえば、高級車を乗り回すことや、華やかな社交の世界のことばかり。苦しい時代に支えてくれた師匠や友人たちは、一人また一人と去っていき、ささいな事件をきっかけに、彼の名声に吸い寄せられてきた取り巻きたちにまで、一斉に手のひらを返される――。
 良く言えば王道。悪く言えばワンパターン。賛否両論かまびすしい漫画だ。
「でも、神輿に担がれてる本人は気がつかないんだよ、崖っぷちが迫ってることに」
「ああ、あの漫画ですね」
 笑いながら言った岡崎も、漫画の内容を知っている。
 松浦は沈黙したまま。
 ――ひょっとして。
 飲み会で言っていたことは、本気だったのか。あれは、単なる酒の勢いではなかった?
 だとしたら、いったいこいつはどんなビッグな人物を目指しているのだろう。
 政治家だろうか……?
 ロックスターだろうか……?
 まあ、どうでもいい。それより、これ以上馬を揺さぶられたら困る。
 真一は、さらに追い込みをかける。
「一度ちやほやされると、いつまでも王様でいられると思っちゃうんだよな」
 頭に蘇るベタな展開、ベタな主人公。こんなベタな漫画にハマる奴も、相当ベタな性格してるよなあ、と岡崎と休憩室で笑い合ったことを思い出す。
「惨めだぞぉー、転落したあとってのは」
「あー、うるさい!」
 やっと口を利いたと思ったら、首の後ろを鷲づかみにされた。爪が肉に食い込んで、思わず、うっ、と声が漏れる。
「だから、こうして厄払いしてやろうってんじゃねえかよ。ついでに池の水でバカも洗い落としてこい」
 ムッとして言ったが、やや険のある言い方になってしまった。
 松浦は言い返してこない。
 ツーピーツーピー、とシジュウカラの場違いに長閑のどかな声が、沈黙を深める。何となく嫌な雰囲気になってしまったが、今更引っ込みがつかず、黙って足を動かすしかない。
「落ちるかな」
 ぽろりと言った岩見沢は、決して狙ったわけではないのだろう。しかし、結果的に絶妙な間の取り方だった。岡崎が吹き出し、バランスを崩した馬がぐらりと傾く。
「あ、危ねえ」
 松浦がとっさに真一の肩に体重を預けてきた。
 岡崎は一旦持ち直したものの、すぐにくっくと笑いがぶり返す。それは真一と岩見沢にも伝染し、再び馬が腰を振る。
「いやいや……落ちねえな……残念ながら」
 一段落ついた頃、岡崎が笑いの余韻の残る声で言った。切れ切れの言葉から、苦しそうな顔が想像できる。
「じゃあ、俺は何のために池に落とされるんだよ」
「んー、将来の予行練習ってとこかあ?」
 人を食ったような言い方に、真一はまた腹筋が震え出す。
「ふざけんな、バカ」
「バカはお前!」
 後ろの二人が同時に叫んで、ハモった、と爆笑する。
「あははっ、やめてくれ、倒れる」
 真一もこらえ切れずくの字になると、馬が酔っぱらったようによろめき、
「まっすぐ歩け、駄馬がっ」
と、馬鹿殿様が怒鳴った。

 龍神池の島に架かる赤いそり橋を 「弁天橋」 という。橋の親柱に、そう書かれた銘板が埋め込まれている。
 橋の袂に辿り着いた頃には、全員へとへとになっていた。真一の負担は、ほかの二人に比べて軽かったものの、松浦につかまれた肩や、動き回る体を支えた背中や腰に重怠さが残る。
 馬を崩して互いに苦労をねぎらうと、岩見沢が袖高欄のそばのベンチに座った。橋口の反対側のベンチには松浦が向かい、座面の花くずを払って腰を下ろす。
 常緑樹が優勢な遊歩道沿いの斜面林は、この時間でもまだ夕陽に照り映えている。龍神池は西に向かって奥行きがあり、瀬戸のような池面が南北に山を分断しているため、ちょうど島の周りだけ、日没直前まで陽が届くのだ。
 縁台型の二つのベンチにはまだ座れる余地があるが、真一と岡崎は、遊歩道の真ん中に残って来し方を見つめた。
 夕陽がくしけずる桜のトンネルに、人の姿は見当たらない。第三広場はもちろん、第二広場からも大方の客は引き揚げてしまった。まだ残っている人々も、まっすぐ駐車場に帰るつもりなら、上り下りの坂があるこの道をわざわざ使いはしないだろう。
 後続の馬の姿も見えない。
 しかし、不可解だ。真一たちの歩くペースは、決して速くなかった。松浦に荒い乗り方をされて、足並みが乱れたくらいだ。後ろの仲間たちとの距離が開くはずはないのだが。
 彼らは、何をしているのだろう。
 トイレにでも寄っているのか。
 それとも、不測の事態が発生したとか。
 答えを探しあぐねていると、ニヤッと笑った岡崎が松浦の所へ向かっていった。
「さあて、こいつをどうしてくれようか」
 腹に一物抱えた顔で、松浦の正面に立ちはだかる。
「どうしてって……何だよ、その目は」
 見上げた松浦は、顔をしかめる。
「……お手柔らかに頼むよ」
 だが、すでに観念しているのか、ため息をついて、首を横に振った。
 にんまり笑う岡崎。岩見沢に顔を向け、
「胴上げしてから、池に落とすってのはどうだ」
「おっ、いいね」
 岩見沢はパチンと指を弾いた。
「シンさんは?」
 わざわざ訊くまでもない。もちろん賛成だ。松浦につかまれた首の痛みは、まだ記憶に生々しい。イエス、ノーの返事を省略して、胴上げの回数を尋ねる。
「まあ、三回でいいんじゃないっすか」
 岡崎の回答はいかにも適当だったが、べつに異存はない。あまり回数を増やしても、担ぎ手が疲れてしまうだろう。岩見沢も同意して、すんなり話がまとまった。
 手持ち無沙汰な時間がやってきた。松浦はぼんやり桜を見上げ、岩見沢は、つま先で意味もなく地面をほじくり返している。何となくその様子を見つめていたら、岩見沢は地面に散らばった花びらを、靴底で掻き集めて、堀った穴に入れるという、さらに意味のないことをやり始めた。
 後続の馬はまだ来ない。声くらい聞こえてもいいのでは、と思って耳を澄ませても、聞こえてくるのは鳥の声だけ。さすがに遅すぎる。
「途中で一服でもしてるんですかね」
 岡崎も眉根を寄せる。その可能性は大いにあり得る。トイレに寄ったついでに、誰かが煙草に火をつけて、そのまま井戸端会議に突入……という一連の流れが、ありありと想像できた。第二広場のトイレの前には、ご丁寧にベンチと吸い殻入れまで置いてある。ひとたび腰を下ろしたら、再び動き出すのは難しそうだ。
 近くでコジュケイがけたたましく鳴いた。チョットコイ、チョットコイ……特徴的なリフレインを追って林に目を向けたが、鳥の姿は見つからなかった。緑豊かな蓬莱公園には、市街地では見かけない鳥も数多く生息している。第三広場にいたときは、藪から出てきた極彩色のキジが、遊歩道でエサを探していた。
 池のほうを見ようとしたら、岩見沢と目が合った。
「ちょっと散歩してくる」
 ここにいてもやることがない。真一は島を指さした。

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