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第二章 「春の祭典」 あとがき

もくじ

 第一章に比べて長めの章になった第二章ですが、核心部分は、やはり第十九話 「世界が失われる時」 になるでしょう。ここでは大人になる 「瞬間」 を描いていますが、これは私の若い頃の経験が元になっています。
 風邪を引いたあとに、咳が長引いて病院に行った日でした。小説の舞台と同じ桜の時期で、病院の周りの桜も満開でした。診察が終わった帰り道のことです。桜並木を眺めて歩きながら、自分が目にした景色にふと違和感を感じました。違和感の中身を言語化することは難しく、小説でも散々苦労したところですが、それは次章以降の話に譲るとして、とにかく、今までと違う景色を見た、という実感がありました。具体的に何が違うというわけではありません。桜並木も街の様子も、客観的な見た目は、以前とまったく変わっていなかったでしょう。「違い」 とは、主観的にのみ把握できる違いです。
 その後も変化した景色が元通りになることはなく、拙稿 「思春期の終わりについて」 でも取り上げた友人たちとのやり取りもあって、住む世界が変わったのだ――つまり、大人になったのだ、と納得するに至りました。
 小説では、この潮目が変わる瞬間を、少し大げさに書いています。ただ、まったくの作り事を書いたつもりはなく、自分の体験に鑑みて、最も強く違和感が表れた場合はどうなるかと予想を立てた、その結果です。実際、昔読んだ本の中に、同じ経験をした人の話が載っていたのですが、その人は、一瞬で世界がすり替わったかのような違和感を覚えた、といった主旨のことを言っていました。このような人がほかにいても不思議には思いません。私のケースとの違いは、違和感の強度だけです。違和感の内容は、あまり変わらないでしょう。

 次に、本章の舞台設定についてですが、蓬莱公園の 「蓬莱」 は中国から伝わった空想上の楽土のことです。浦島太郎の竜宮も、古代においては蓬莱でした。竜宮城が登場するのは、中世の御伽草子からです。蓬莱は海の彼方にあって、不老不死の仙人が暮らすとされています。秦の始皇帝が大量の人間を使って、不死の仙薬を求めさせた話は有名ですね。あるいは、ドラゴンボールの亀仙人が暮らす絶海の孤島も、元ネタは蓬莱島でしょう (蓬莱が亀の背中に描かれることもあります)。
 小説では、「原初の楽園」 かつ 「失われる世界」 という意味を持たせました。最初にあった幸福な世界が失われて、長い苦難の道が始まる――アダムとイブの話で有名な楽園喪失の物語は、青春時代が終わって、大人の人生が始まるという、実際の人生の筋書きと重なると思うからです。
 第十九話で、世界が二つに分断されます。赤い反橋の向こう、仲間たちのいる石垣の上は従来の世界、「子供の世界」 です。そして、真一が取り残された島側は新たな世界、「大人の世界」 です。本当は島を 「子供の世界」、遊歩道側の陸地を 「大人の世界」 としたかったのですが、そうすると仲間たちが消え去ったあと、真一が一人になるシーンを描けなくなってしまうので、こうするしかありませんでした。位置関係が不自然になってしまいましたが、仕方ありません。

 まだ隠れていることがあります。
 私が若かった頃は、まだ現代思想が元気で、私も片足を突っ込んだ時期があったのですが、日本の思想家で好きだったのが今村仁司さんでした。最初に読んだのが 「排除の構造」 という本で、当時、何度も読み返したことを覚えています。同時に、ここからアイデアを拝借して小説にしたら面白いんじゃないかという思いも湧き上がりました。何年か経ってこの小説を書く機会が生まれて、じゃあ、ということで書くことにしました。第六話 「愚者 一」 から、第十七話 「人身御供」 までが、だいたいその部分に当たります。本章の核心に至る前フリの部分です。小説のテーマとはあまり関係のない内容ですが、初稿を書いたときから三十年近く経った今も、ほかに適当な前フリのストーリーが思いつかないので、そのまま残すことにしました。冗長に感じられた方には、申し訳ありません。

 章タイトルは、ストラヴィンスキーの代表曲から。
 自伝にあるように、「春の祭典」 は、ストラヴィンスキー自身がべテスブルグで 「火の鳥」 の最後の頁を書いているときに見た束の間の幻影――異教 (キリスト教から見た場合の) の生贄の儀式――に基づいて制作されました。また、初回公演時に、大きな騒動になったこともよく知られています。第十七話 「人身御供」 では、松浦が春の女神の生贄として池に投げ落とされますが、この場面とここに至るまでの一連のドタバタ劇を、同曲にまつわるエピソードに照らしてこのタイトルを付けました。

 長い章になりましたが、最後にお勧めの話を挙げておきます。


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