第二十六話 水切り
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「あー、腹減ったな、ちくしょう。いったいどこなんだよ、ここ」
谷間の狭い空に、悲痛な叫び声が吸い込まれていく。岡崎が川原にあぐらをかいて見上げる空は、絶望的なまでに高い。両側に立ちはだかる切り立った谷壁と急斜面。前後も山々が視界を塞ぎ、深いクレバスに落ち込んでしまったかのようだ。
「どっかに食い物売ってる店ねえかなあ……ってあるわけないか、こんな山奥に」
岡崎はあきらめ切った顔で、新樹が彩る右手の急斜面に目を移す。うぐいす色の描点の奥、道が通っていることを示すガードワイヤーのそばに、小林の車のフロント部分が見える。谷川沿いの狭隘な道には、所々対向車をやり過ごすための待避所が設置されていたが、川原へ下りる小道の口が開けていた所に、小林は車を停めた。
「出前でも頼むか」
「シンさん携帯持ってないでしょ」
「……そういう問題かよ」
和ませようと思って言ったのだが、じろりと睨み上げられてしまった。岡崎の空腹感は、すでに冗談の通じない域に突入している。大学生らしく――かどうかは知らないが、普段から朝食を食べない岡崎は、腹に備蓄がないのだ。
携帯といえば、真一はまだ携帯を持っていない。携帯電話やPHSは昨年あたりから爆発的に普及し始め、若い世代の間では、すでにポケベルに代わるツールとして定着した感がある。持たざる者が周りからどんどん減っていく中、真一も年明けくらいには入手しようと思っていたのだが、バイトが替わったりして、色々とごたごたしている間にここまで来てしまった。
「でも、最後に見た店まで戻るにしてもなあ……」
ここまでの道のりを、頭の中で逆に辿ってみる。
道が山に入る少し前、やっているのかいないのかもよくわからない商店があった。うっかり物置きか何かと勘違いしてしまいそうな粗末な店。古ぼけた瓦屋根の上に雑草が生え、こげ茶色の板壁で大村崑が 「おいしいですよ!」 と笑っていた店だ。旧型の郵便ポストと満開の八重桜が並んで佇んでいたから、見過ごす心配はない。
そこまで、だいたい三十分。ただ、マサカズの体調を考えれば、あまり車を飛ばすわけにはいかないだろう。往路よりも時間がかかってしまうことは確実だ。運良く店がやっていたとしても、弁当などはたぶん置いていない。腹持ちがいいものがあるとすれば、せいぜい菓子パンくらいか。あとは、お湯を沸かしてもらって、カップ麺をすするという手もあるが……。
「……でも、まあ、ちゃんとしたメシを食いたきゃ、国道まで戻るしかないな」
結局、そういう結論になってしまう。
「国道かあ……遠いっすね……」
天を仰いだ岡崎は、谷底までまっすぐ降り注いでくる陽射しに目を細めた。それからポケットをまさぐり、空き地の前の田舎商店で補充した煙草を引っ張り出す。玉石の間に突き立てたコーヒー缶は、小林が車の中で飲んでいたもの。待避所に車を停めたとき、岡崎はドリンクホルダーから抜き取って、勝手に灰皿にしてしまった。
岡崎が話しかけてこなかったので、真一は川瀬のほうに足を向けた。
水際で、平べったい石を一つ拾う。
子供の頃よくやった遊び、水切り。
石の縁に指をかけ、流れの緩やかな場所に狙いをつける。大きく腕を引いて、低い体勢から振り抜くと、指先から飛び出した石は、浅葱色の水面を削って、対岸の湿っぽい崖に当たって砕けた。川面の上空に群れていたカゲロウが、驚いて逃げていく。陽射しの下で再結集すると、透明な羽がガラスのようにキラキラ輝いた。
また石を拾おうとして身を屈めたら、ぐうー、と腹の虫が鳴いた。真一にしても、腹が減っていないわけではない。出発してから、かれこれ二時間以上経っている。本来なら、とっくに昼食にありついている時間なのだ。
空き地を出発したときには、ラーメン屋の一軒くらいは見つかるだろうと高を括っていたが、期待は見事に裏切られた。田舎の一本道にはラーメン屋はおろか、廃れた大衆食堂のような店さえ見当たらなかった。コンビニ、ファミレスは言うに及ばず。唯一見かけたのは、道から少し外れた田んぼの真ん中に、ぽつんと立っていた小体な居酒屋。「四時歌」 と書かれた看板が道端に出ていたが、常連だけで成り立っていそうな店だったし、そもそも日中に営業しているとは思えなかった。今更言っても始まらないが、道が山に入った時点で引き返すべきだった。いずれどこかへ抜けるだろう、と安易に構えていたせいで、こんな秘境めいた場所に迷い込んでしまったのだ。