第四十二話 蒼穹
もくじ 2,533 文字
「来たぞ!」
突然上がった叫び声によって、赤茶けた景色が若草色に塗り替えられた。
アウトドア用のテーブルセットに座っていた若者が、漫画を放り出して走り出している。ウーロン茶のペットボトルが倒れて、卓上が水浸しになっているが、青いTシャツの背中は目もくれず、草むらについた道筋を、飛び跳ねるように駆けていく。
アタリが来たのは、菜の花のそばの竿。真一が座っているコンクリート斜面まで、かすかに鈴の音が届く。
若者が竿をつかんだ。手元のドラグを締めて竿を起こすと、竿先が大きくしなり、いきおい彼も前のめりになる。強烈な引きだ。真一も、思わず拳を握る。対岸の釣り師も、ただならぬ気配に気づいて、信号カラーのパラソルの下から出てきた。
「どうよ?」
遅れてやって来た友人の声に、若者が振り返る。
「でかいでかい。ここ数年で一番かも」
興奮と焦燥が入り混じった声。
「本当かよ」
「玉網は?」
「今持ってくる」
友人が親指で背後を指した。ちょうど三人目の友人が、玉網を片手に、草むらの小道を歩いていた。
「じゃあ、取り込み頼む」
前を向いた若者は、またドラグを調整しようとする。しかし、リールに目を落とした瞬間、ぐーんと竿が引っ張られた。
「うおっ、と」
両腕がロケットのように吹っ飛ぶ。水中の魚が、一気に走り出したようだ。若者は腕を突っ張らせたまま、よたよたと川のほうに引きずられていく。
「おいおい……」
傍らの友人が助けようとしたが、実際どうしたらいいのかわからず、両手を上げて、おろおろ見守るばかり。
青いTシャツの若者は、川岸で何とか竿にすがっている状態。不格好に腰だけ後ろに残って、両足の踏ん張りが利いていない。
川面が目に入って焦ったのだろうか。強引に竿を起こそうとした。
――糸が切れる。
満月を描いた竿が見えて、真一は心の中で叫んだ。糸が切れるだけならまだしも、下手をすれば、竿を折られることだってあるだろう。
だが、ちょうど魚のほうから、力を逃がす方向に泳いでくれたらしい。糸も竿も無事だった。
そもそもドラグを締めすぎなんじゃないか――拳を緩めてそう思ったが、対岸に並んだ竿が目に入って、ああ、とうなずいた。竿の数は、六、七本。魚が突っ込んだら、盛大なお祭りになってしまうだろう。川幅はそれなりに広いが、若者がアタリに気づいてから竿をつかむまでの間に、かなり糸が出てしまった可能性がある。元気のいい魚なら、向こう岸まで一直線に泳いでいくかもしれない。
ともあれ、魚に救われる形で、若者は体勢を立て直すことができた。以降は強引な竿の扱いをせず、魚の動きに合わせて、岸辺を歩きながらリールを巻いていた。
格闘することしばらく――。
抵抗する力をなくした魚が、ぬらりと黄金色の胴体を光らせて、玉網に取り込まれた。
若者を手こずらせた相手は、やはりコイ。丸々と太り、体長も一メートルくらいありそうだ。友人たちが二人がかりで草むらに引っ張り上げ、早速メジャーが当てられる。
「89、90……いや、91だ。 91センチあるぞ!」
惜しくもメーターには届かなかったが、文句なしの大物だ。少なくとも、この川の平均サイズはゆうに超えている。八十八夜の三日後に九十一センチで験もいい。鯉釣り大会だったら、ピッタリ賞をもらえるかもしれない。若者たちも、ハイタッチを交わして喜んでいる。
ほどなく、コイは川に返された。貫禄たっぷりの魚体が、浅瀬でゆっくりSの字を描いて、濁った水に消えていく。
興奮冷めやらぬ若者たちは、しばらく大声で会話していたが、ひと段落つくと、手分けして竿や道具を片付け始めた。これだけの大物を釣り上げたのだから、もう釣りは十分なのだろう。
河川敷に静けさが戻ってきた。真一は肩の力が抜けて、川下側に視線を伸ばす。
土手裏のコンクリート斜面は、少し先で青々とした草斜面に取って代わられる。そこから先は、V字を成す緑の帯がずっと続いている。この区間は、川筋が一直線で見通しが良い。
それにしても、自然の回復力は凄い。ついこの間まで枯れ色だった景色が、あっという間に緑に塗り替えられた。土手と川原には、いったい何種類の草が生えているのだろう。アシ、ススキ、スイバ、イチゴツナギ、イヌムギ、ネズミムギ、カモジグサ、コバンソウ、ヨモギ、セイタカアワダチソウ、ハルジオン、シロツメグサ、アカツメグサ……けっこう思いついたが、まだまだあるはずだ。
遠くを見晴るかすと、陽射しにかぎろう鉄塔の影が見えた。蓬莱公園から東側は、平野が広がっているため、高いものは駅周辺のビル群を除けば、送電線の鉄塔くらいしかない。
遠い景色の中から、ヒッ、ヒッ、ヒッ、とかすかにセッカの声が聞こえてくる。川下側に大きな遊水地があるためか、このあたりも鳥が多い。沖縄の民話によれば、このセッカだかヒバリだかが、神様の言いつけを守らなかったために、人間は不死の生命を手に入れ損なったのだとか。死の起源を説明する 「バナナ型神話」 の類話だという。
清和なる五月の景色をぼんやり眺めていたら、ふと誰かの声を聞いた気がした。
大人になると、見えなくなるものがある――
どこかで聞いたようなフレーズ……。
果たして、本当だろうか。
上空を見上げる。
嘘のように青い空――まるで、絵の具で塗ったみたいだ。
昨日から降り続いた雨が、大気中の塵や埃を洗い流したのだろう。ずっと見続けていると、吸い込まれそうな気がしてくる。
大きく深呼吸。
さっきまで考えていたことが、ただの思い込みだったように思える。
実際、ただの思い込みだったのでは……?
なぜなら、空はこんなにも青い。
子供の頃に見た空の色と何も変わらない。
「さて、と」
背後のパーカをつかんで、立ち上がった。
足下の河川敷では、若者三人組が、まだ釣りの後片付けをしている。今日は連休の最終日。大物を釣り上げた彼らは、これからどこかで祝勝会でも開くのだろうか。
まあ、真一には関係ない話だ。
身を翻して、コンクリート斜面を上る。ガードパイプを乗り越えると、緑に染まった風を感じながら、サイクリングロードを引き返していった。