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第二十九話 アルカディア

もくじ 3,023 文字

 「アルカディア」 という店の前には、レトロなバイクが三台並んで停まっていた。アメリカンではなくイギリス車――といっても、実際には、国産バイクを英国のクラシックバイク風にカスタムしたものだが。車を降りて、ちらっとナンバーを確認したところ、思った通り、東京方面からのツーリング客だった。真っ当なルートを使えば、楽々谷は特に来づらい場所ではない。真一たちと違って、快適なツーリングを楽しんできたに違いない。
 玄関まで行って、格子窓のはめ込まれたドアを押し開ける。頭上で、ドアベルが牧歌的な音を鳴らした。
「いらっしゃいませー、何名様ですか」
 オープンキッチンから、バンダナを巻いた中年の女性が、明るく声をかけてきた。岡崎が、四、と指を立てる。
「お好きな席へどうぞー」
 店内は奥行きのある造り。窓際に並んだテーブルのうち、いちばん奥の席でお茶を楽しんでいる男女三人組は、表のバイクの持ち主だろう。昼食時を過ぎた店内にいる客は彼らだけ。ドアベルの音に気づいて顔を上げた革ジャンの男は、真一たちより少し年かさの二十代後半くらいに見えた。こちらに背を向けて座っている男女の年の頃はわからない。
「ここでいいだろ」
 真一は、入り口のすぐ左側に、一卓だけ設けられたテーブルを指さした。バイカー三人組は気にしていない様子だが、窓際の白いテーブルは陽射しの反射がきつい。眩しさに目を瞬きながら食事するのは、ちょっと遠慮したいところ。
 反対する者はなく、真一と小林が奥に詰め、マサカズが真一の隣、岡崎が小林の隣に座った。
 真一たちの席は、窓がないことの埋め合わせか、壁際の棚に大きな水槽が置いてある。小さくて平べったい魚が中に群がっているが、朽木や水草の陰に隠れているものも含めれば、二十匹は下らないだろう。うっすら虹が溶け出したような色の個体もいて、こちらは見た目も涼やかだ。
「へえ、きれいな魚だな。何て名前?」
 背後から身を乗り出したマサカズが、誰にともなく訊いた。真一は、タナゴだろ、と答える。
「タナゴ……?」
 知らないらしい。そのことに軽く衝撃を受けたが、考えてみれば、マサカズが育った常世野市は、真一が高校時代まで暮らしていた街より、だいぶ都会だ。ありふれた魚を知らない人がいても、無理からぬことかもしれない。
 水槽のタナゴの正式名称は、タイリクバラタナゴ。熱帯魚とは違った、控えめな美しさが魅力で、観賞魚としても人気がある
「色のついているのと、ついていないのがいますけど」
「色のついているのはオス。ついてないのはメス。産卵期になると、オスにはきれいな色が出るんだ。婚姻色って言うんだけど」
 真一は、水槽の底を指さす。
「そこに貝が沈んでいるだろ」
 砂利底に、シジミのお化けみたいな二枚貝が沈んでいる。ドブ貝だ。
「メスはこの貝の中に卵を産み付けるんだ。化した稚魚は、しばらく貝の中で過ごしてから外へ出ていく。稚魚にとって、硬い貝の殻は、身を守るシェルターみたいなもんだな」
「そうなんですか。ただの飾り物かと思った」
 水槽に映り込んだマサカズの顔が、感心してうなずく。
「このへんにいる魚ですか」
「いや、山地の魚じゃない。平地の用水路か溜め池で捕ってきたんだと思う。俺も昔やったけど、大きめの玉網たも叉手網さであみにコイ釣り用の練りエサを入れて、浅瀬に二、三分も放置しておけば、ごっそり捕れるよ」
「ごっそり……っていうと、この水槽にいるくらい?」
「もっとかな」
「マジで!? 面白そう」
 水槽の顔が目を見開く。
「まあ、どこでも捕れるわけじゃないけど」
「と言うと?」
「護岸された池はダメだな。二枚貝が棲めないから」
「あー、そうなんだ」
 ほかには、釣ってきたという可能性もある。タナゴは小さくても立派な釣りの対象魚。タナゴ釣りは、江戸の昔から粋な釣りとして人気がある。愛好家の中には、タクトのように短い継ぎ竿や、蒔絵まきえ螺鈿らでんの装飾を施した道具箱を使う人もいる。職人が作った道具に飽き足らず、自分で道具を作る人も。いかに大きい魚を釣るかではなく、いかに小さい魚を釣るかを競う点もユニークで、ある意味日本人好みの、極めて趣味性の高い釣りと言える。楽々谷にタナゴはいないだろうが、山を下ればいくらでも釣り場はありそうだ。店の主が、街に下りたついでに、釣ってきたのかもしれない。
「失礼します」
 先ほどの女性が、水とおしぼりを持ってきた。テーブルにトレーを置いて、グラスから先に配り始める。岡崎が右手を挙げて、灰皿下さい、と要求し、小林は、カレー大盛り三つ、と注文を告げた。カレーは作り置きがあるから待ち時間が少ないだろうと踏んで、三人とも同じ注文にしたのだった。胃に多大な負担をかけたマサカズだけは、サンドウィッチを頼んだ。
 灰皿と氷がぎゅう詰めのピッチャーを持ってきた女性が立ち去って、ほどなくカレーが届けられた。サンドウィッチもさほど手間がかからなかったらしく、一緒に運ばれてきた。
 大盛りカレーはなかなか手強そうだ。ライスは山盛り。魔法のランプみたいなグレーピーボートも、なみなみとルウが満たしている。一息に空けたら、皿から溢れ出しそうなので、レードルを使って少量ずつライスによそうことにした。
 アケビか何かの蔓を編んだカトラリーケースに、岡崎が手を伸ばす。つまんだスプーンをじっと見つめ、おもむろにグラスに突っ込むと、真一の正面に滑り込ませてきた。
「今度、こいつの店でカレー頼んでみて下さいよ。水とスプーンがこうやって出てきますから」
 横目で小林を窺う。小林は、薬味入れからラッキョウをつまんでいるところ。
「かなり笑えますよ」
 真一に視線を戻し、ニヤッと笑う。
「いいかげんなこと言うな! 今時、そんな店があるか」
 猛然と否定した小林がおしぼりを投げつけたが、端っこが岡崎のライスにかぶさってしまう。
「あー! 何すんだよ」
 身をけ反らせて憤慨する岡崎。
「パーラーこそ、今時あるかよ。パチンコ屋と間違えるっつうの。せめて純喫茶にしろ……あ、それじゃあ、あんま変わんないか」
「変わらなくないだろっ。パーラーはデザートが豊富なんだよ。パフェとかプリン・ア・ラ・モードとかフルーツポンチとかクレープとかババロアとか三色メロンゼリーとか色々あるんだよ」
「やたら味の濃いナポリタンとかな」
 岡崎が抑揚のない声で言う。
「あげ足取るな」
「粉っぽいハヤシライスとか」
「大きなお世話だっ」
 小林が再び声を荒げて、言い合いになる。ウチに来る客は昔ながらの味を求めているんだ、と主張すれば、岡崎は、メニューにチキンライスなんて書いてある店は、もはや歴史博物館を名乗れ、とやり返す。言い争いは、やがてメニュー全般に関する議論に発展していき、いつしか二人とも真面目に話し込んでいた。フルーツサンドはデザートと食事のどちらに分類されるのかとか、パフェとサンデーの違いは何かとか、ミルクセーキやミックスジュースは、なぜファミレスに置いていないのかといった議論が、延々と繰り広げられた。飲食店で働いているわけではないマサカズは、まるで興味なさそうに、もそもそとサンドウィッチを頬張っていた。
 真一はカレーを食べつつ、議論に耳を傾けていたが、途中で言いたいことがあった。
 だが、口を挟もうとして、テーブルに手を伸ばしかけとき。
 また、あの光景を見た。

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