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第十六話 春の女神

もくじ 2,316 文字

 島にも人影はなかった。空気はひっそりと静まり返り、昼間の賑わいが嘘だったかのようだ。公園が閑散とする時間帯とはいえ、まったく人がいないのはやや意外だ。
 島の北側で、夕陽を浴びた千年桜が咲き誇っている。蓬莱公園のシンボルとも言える一本桜。豊かに花をつけ、樹形も美しい。正面から見上げた様は、花のかまくらのようだ。
 薄紅色のむろの中に入ると、どっしりとした太い幹が目についた。ゴツゴツして落ち着いた色合いの樹皮からは、古木のみが持つ風格が感じられる。人の背丈くらいの所で三又に分かれ、さらに枝分かれした支幹や枝が、かまくらの屋台骨を作り上げている。青空を埋め尽くさんばかりに咲いた花。ヤマザクラらしい赤芽も交じるが、花のほうがずっと多い。この場所だけ仄かに暖かい気がするのも、無数の花に包み込まれているせいだろうか。耳を澄ませば、桜の鼓動が聞こえてきそうだ。
 ふと、「世界樹」 という言葉を思い出した。地上から天上まで、一本の木が支えているという考え方。世界中の神話や宗教に登場するという。千年桜も、それを思わせる。頭上に広がっているのは、薄紅色の宇宙。どっしりと太い幹は、宇宙を支える大黒柱だ。
 浮御堂うきみどうを目指して歩き出す。花の下を抜けて視線を伸ばすと、瀬戸のような池面を挟んで向き合う、南と北のどちらの山にも、ヤマザクラとオオシマザクラが彩りを添えている。手前に池が横たわっているため、広場よりも海の景色に近い。そういえば、家が造園業を営んでいる松浦が、公園の池は海を表し、島はそこに浮かぶ不老不死の楽土蓬莱を表すのだと言っていた。蓬莱に見立てた中島や築山を築いた庭園は、すでに飛鳥時代から見られ、日本庭園の様式の一つになっているのだとか。ちなみに、枯山水に蓬莱を取り入れた庭があることは、真一も知っている。
 短い橋を渡って、六角形のお堂の前に立った。紅白の鈴の緒を引くと、頭上でかすれた音が鳴る。財布を取り出そうとポケットに手を伸ばしたが、昼間賽銭を払ったことを思い出して、引っ込めた。
 琵琶を抱えた弁天像と向き合う。日中は参拝者の行列ができていたので、ゆっくり拝観するヒマがなかった。
 膝を崩して座る弁才天に、仏像っぽい堅苦しさは感じられない。薄い羽衣の袖口から伸び上がった腕は、流れるように躍動的で、弦を押さえるしなやかな指先も、まるで風をつむいでいるようだ。大人しやかに目を伏せ、かすかに微笑んだ口許は、花時の暖かさを宿している……。
 春の女神。
 一目見た誰もがそう思うに違いない。
 像を彫った仏師も、芽吹きの季節の浮き立つような気持ちを女神像に仮託して、のみを振るったのかもしれない。
 視界の両端が眩しかった。正面からの陽射しをお堂が遮るため、左右の水面の乱反射が強く意識される。真一が立っている場所は影になり、ほかの場所との明暗差によって、ぼんやりした光の球の中にいるようだ。
 穏やかな気持ちを感じている。温かい水の上を揺蕩たゆたっているような……。
 風が春の匂いを運んでくる。土の匂い、水の匂い、森の匂い、花の匂い……。いくつもの匂いが混ざり合って、万華鏡のように奥が深い。
 この匂い――どこからやって来るのだろう。
 遠い場所かもしれないし、案外近い所かもしれない。
 記憶にない匂いも、混ざり込んでいるかもしれない。
 春の匂いの正体はわからない。
 出どころも不明。
 でも、わからなくていいと思う。どこにもない場所を、想像できる余地が残っていたほうがいい。
 しばらくして、遊歩道のほうが騒がしくなった。仲間たちがやっと到着したようだ。遅えよー、と岩見沢の不満げな声に、益田が冗談めいたことを返して、笑いが上がる。誰かがペットボトルを打ち鳴らす音が聞こえる。静かな池畔に、昼間と同じような賑わいが戻ってきた。
 もう少し、この場でまどろんでいたい気もしたが、全員揃ったのなら仕方ない。
 お堂に背を向けた真一は、赤い橋のほうへ戻っていった。

 遊歩道に帰り着いたとき、ちょうど二基目の馬が到着した。出迎えた岡崎と岩見沢の前で、川崎が軽やかに馬から飛び降り、宇和島と野田と益田が組んでいた腕を離す。川崎は行儀良く馬に跨っていたらしい。馬役の三人に、疲労の色はなかった。
 遅れてぽつぽつとやって来た仲間たちは、手に何かしらのものを持っていた。高萩さんと大月さんは松浦と川崎の靴、クーラーボックスを肩に掛けた西脇は、溺れそうな奴がいたら、ブイの代わりに投げ込んでやるんだ、とわけを説明し、馬に乗れなかった五所川原は、拍子木みたいにペットボトルを打ち鳴らして、行列のしんがりを務めていた。
 だが、よくよく顔ぶれを確かめると、欠けている奴がいる。まずマサオがいない。稲城の姿も見当たらない。
 二人はどうしたのか。怪訝に思って尋ねると、宇和島が事情を説明してくれた。
 結論から言えば、真一たちの推測は外れた。宇和島たちは、途中で油を売っていたわけではなかった。遅れた理由は、マサオの具合が悪くなったから。第二広場に差しかかってすぐ、マサオは気分の悪さを訴え、広場の半ばに達したところで、遊歩道の真ん中にへたり込んでしまった。助け起こしても、すぐにどすんと腰を落とす。しまいには、地面に大の字になって、この世の終わりみたいにうんうん唸るだけになってしまった。とりあえず芝生に運んで休ませたが、回復の兆しは見られず、置き去りにするわけにもいかなかったので、稲城に付き添いを頼んだ。恐らく、橋までは来られないだろうとのこと。まったく手のかかる奴だよ、と宇和島はさじを投げるように言った。

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鈴木正人
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