第四十一話　八十八夜の忘れ霜

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　土手と河川敷のあちこちで金属質な虫の声がする。初夏を告げるクビキリギスの声だ。風に青草の匂いが混じる頃になると聞こえ出す。子供の頃は、「チスイバッタ」　と呼んでいた。口の周りが赤く、血を吸ったように見えるから、この俗称が付いたらしい。どちらかといえば嫌われ者の虫だった気がするが、都会に引っ越した今は、耳障りな声にも若干懐かしみを覚える。
　五月五日の今日、常愛とこよ川の河口　（大きな川と合流した時点で　「常愛川」　の呼称は消えてしまうが）　では、恒例のドラゴンボート・レースが開催される。ドラゴンボート・レースは中国発祥の競技で、元々は　「競渡けいと」　と呼ばれていた。沖縄ではハーリー、長崎ではペーロンの名で親しまれている。レガッタに似た競技だが、竜を象かたどった舟　（龍船）　を使用するところが特徴だ。六朝時代の長江中流域の風俗を記した　「荊楚けいそ歳時記」　にすでに記録があるというから、歴史は相当に古い。
　川下の景色に、テレビで見た競技の様子を思い浮かべ、また前を向く。
　対岸の土手の上に、半分だけ顔を出した街並み。背後の空は、低くなるにつれ、青の度合いを薄めていく。
　三日前にも、この河川敷を訪れていた。「八十八夜の忘れ霜」　という言葉が頭をよぎる寒い日だった。土手の階段を上り詰めた途端、強い風に煽あおられ、首をすくめて見た対岸の街並みは、一様に冷たい夕焼け色に染まっていた。
　サイクリングロードを突っ切って、そのまま土手裏の階段を下りていった。二段構えのコンクリート斜面の中腹は、通路のようになっている。その部分を、国道の橋のほうに少し歩いて、下の斜面のてっぺんに腰を下ろした。

　河川敷には誰もいなかった。コンクリート斜面に座っているのも真一だけ。ゲートボールコートの赤茶けた地面を、つむじ風が生き物のように徘徊し、黒々とした川面に、無数の白波がささくれ立っている。
　冷たい風に身を縮めつつ、小さなレジ袋から、コンビニで買った缶コーヒーを取り出した。袋の中には、ほかに菓子パンが一つ。握りしめた缶が、そこだけ別世界のように熱かった。
　プルタブを引いて心に浮かんだのは、「アルカディア」　で見たあの光景。
　一瞬の出来事だったが、鮮明に頭に焼き付いている。
　小林と岡崎は、彼らの世界にしっくり馴染んでいた。
　彼らには、その世界がふさわしい。
　ほかの世界は似合わない。
　例えば、魚は水の中で暮らすことが自然だ。鳥は空を羽ばたくことが自然。
　水から出た魚は生きられない。陸地をうろついているだけの姿は、鳥には似合わない。
　それと同じようなことが、小林たちにも言える。
　彼らには相応の世界がある。
　彼らの資質に適した世界が。
　コーヒーをすする。ほうっ、と吐いた生暖かい息は、すぐに風に飛散した。隣に置いたレジ袋が、中身のパンごと飛ばされそうになっていたのに気づいて、ナイロンジャケットのポケットに突っ込んだ。
　あの一瞬の光景を、もう一度頭の中で再現する。
　あのとき、見てはならないものを見てしまった、と強く思った。
　どうしてそんなふうに思ったのか……。最近では、その理由を、こんなふうに考えている。
　二人の　「純粋な」　姿を見てしまったから、と。
　純粋な――つまり、混じり気のない、ありのままの姿。
　あの瞬間、小林と岡崎はあまりにも　「彼ららしかった」。彼らは本来あるべき姿を、しっかり体現していた。
　水の中の魚たちは、水の中で魚らしく振る舞う。強風に逆らって飛んでいるツバメも、たまに河川敷をちょろついているイタチや野ネズミも、それぞれの世界で、それぞれらしく生きている。
　魚は鳥のように振る舞えない。鳥や獣も魚のようには振る舞えない。もし、前者が後者のように、後者が前者のように振る舞おうとしたらどうだろう。きっと、おかしなことになってしまうに違いない。どんなに一生懸命相手の真似をしても、不自然さは隠しようもない。
　魚らしく振る舞えるのは魚だけ。鳥や獣のように振る舞えるのも鳥や獣だけだ。
　では、なぜ魚は魚らしく振る舞えるのか。鳥や獣は鳥や獣らしく在あれるのか。
　それは、彼らが彼らの本性に従っているから。
　本性――あらゆるものの　「らしさ」　を形作っているもの。すべての存在の雛形みたいなもの。
　それに基づいている限り、魚は自ずと魚らしくなっていく。すべての存在は、すべての存在らしく振る舞うことができる。誰に教わることも、そうあろうと意識することもなく。
　そうした意味で、小林と岡崎はとても自然だった。彼らは紛れもなく、自分たちの本性に従っていた。
　水槽のタナゴの動きを、人間が模倣することはできない。
　同様に、二人の在り方も真似できないと思った。
　どうしてそう思ったのか？
　今ならわかる。
　彼らと同じ本性が、自分から抜け落ちてしまったから。それによって、彼らとは異なる何者かになってしまったからだ。
　偽物は本物にはなれない。
　魚が鳥に、鳥が魚になれないように。
　だから、自分も二人と同じようには振る舞えない。
　答えは、いたってシンプルだ。
　手の中の缶が冷たくなっていた。知らぬ間に、コーヒーを飲み尽くしていたらしい。
　骸のようになってしまった缶をコンビニ袋に戻し、代わりに取り出したパンの封を切ってかじりつく。
　目の前の景色に、明るい色をしたものは一つもない。赤茶けた地面、黒々とした川面、灰色の橋脚と護岸、強風に煽られる川岸の草むらまで、寒々しい黄昏色に染まっている。
　無味乾燥として、生命の温かみは感じられない。
　砂漠にも等しい虚無感が漂うだけ。
　けれど――
　それは、新しい世界の風景にどこか似ている。