「時間」の正体、それはカルマ(業)じゃないだろうか
上記事の続きです。
もし読まれてなかったら是非読んでみてください。
さて、前記事の結論は「時間は存在しない」というものであった訳ですが、ピンと来ない人もいた事でしょう。本記事では前記事の補足と、そこから更に考察を進めてみようと思います。
そうは言っても花は枯れる
我々が「時間が流れている」と感じるのは、過去と現在、現在と未来というような、認識における相対化がなされているからです。日は沈み、花は枯れます。それの動きを人は「時間」と認識しています。
しかし、前記事で僕が述べたのは、時間は存在せず『連綿と続く「今現在」という一瞬』があるだけだと言うことです。例えるならパラパラ漫画やアニメーションのように、一枚一枚の絵=今現在という瞬間のひとつひとつ が存在しているだけではないだろうか、という事です。
「過去」も「未来」も、人の認識、つまりバイアスの中にある概念です。もっと言うと、「未来」という概念は資本主義の誕生と同じくして「発明」されたものです。本当にそれらが存在するのかは、証明のしようがありません。
ですが、ここで疑問が生まれます。
『原因Aが存在したから結果Bが生まれる』
というごくごく当たり前の因果関係、つまり相対的な認識方法は、時間の存在の証左となるのではないか、ということです。実際に因果関係は存在します。今だって僕は文字を打っているから文章を作れている訳ですし。花は枯れ、日は沈みます。
しかし、「時間」と「所作の因果関係」は必ずしも硬く結びついた関係なのでしょうか。そこは疑問も持たずに我々が認識しているだけで、実は再考の余地があるかもしれません。
要は「花が枯れる」ことも「日が沈む」ことも、「時間」ありきの事象ではない可能性を、模索したいのです。
カルマ(業)という言葉の意味
ここで僕が持ち出したい概念が「カルマ(業)」です。普通例えば『業が深い』など、「罪深い」に近いニュアンスで使われることが多いような気がします。
でも言葉の意味的にそれは間違いです。
weblio国語辞典から引用します。
と、このように、カルマとは善悪関係なくニュートラルな概念であり、行動のみならず思考・欲望・性癖などから生じるものである、と言う事です。人によってはイマイチピンと来ないかもしれませんので、次項で補足します。
カルマと因果律の補完関係
カルマと混同されがちな概念に「因果律」があります。しかし厳密には似て非なるものです。カルマと因果律は補完関係にあるという話をご存知でしょうか。
因とは「原因・動機・理由」であり、
果とは「結果」である。
そしてカルマとは、因と果とに介在する経過そのものである。
というものです。
カルマを説明する際に周りくどい言い方をしてしまいましたが、要は『因果を介在する何かしらのプロセス』の総称が「カルマ」だという事です。
このように考えると、カルマや因果という言葉はごくごく身近なものについて述べているとわかります。
結果は次の原因に繋がり、その原因がカルマを経て再び結果をもたらす。
と、このようにこれらは循環しています。
ですが、仮に「因果律」か「カルマ」の片方が欠けていれば循環は起きませんし、そもそも概念が存在しなくなります。詳しく言及すると、
因も果もなければ「因と果を結ぶプロセス自体であるカルマ」は存在しようが無いですし、
カルマというプロセスが存在しなければ、因は果へと至らず、相対的な因と果の関係がそもそも成立しません。
つまり言えるのは、
「因果律とカルマは補完関係にある」
ということです。
因果律とカルマの決定的差異
「因果律」と「カルマ」は似て非なる概念ですから、当然区別されるべきです。そして、これらが区別されたらめしめる最大の違いこそが、「状態」であるか「経過」であるかという事です。
例えば極端な話、物事の何を原因(因)として結果(果)とするかは個々人の認識に委ねられます。何故ならそれらは所謂時間の考え方から切り取られた「状態」を指すからです。無数にある『状態』の選択肢の中から(恣意的に)切り取って選ばれた一部こそ、因果と“認識”されます。
一方で、時間の認識を汲んだ認識をされるものがカルマであるという訳です。つまり「経過」を伴う認識なのです。
経過を伴うか伴わないか、その違いが「因果律」と「カルマ」の性質の決定的差異だと僕は考えています。
所謂『時間』の正体はカルマ?
ここで話を戻しますが、一般的な認識における「時間」の本来の姿こそは「カルマ」ではないかと推察できるのです。
カルマは先にも述べた通り『因果に介在する何かしらのプロセス』の総称です。そして状態である因果と違って「経過」そのものを指す概念でもあります。
例えばざっくりした話、
「種が発芽したから」→→→「花が咲く」
「地球は自転するから」→→→「日が昇る」
これらの→→→の部分は「経過」であり「カルマ」です。
日が昇ることと沈むことは、人間に「時間」という普遍的で「流れている」ものがあると思わせるのに十分かもしれません。しかし、それらは地球の自転によって引き起こされる果でしかないのです。例えば虚空の宇宙空間は自転すらない世界です。そんな世界しか知らずに「時間が流れている」などと言う人間はいないでしょう。「時間」は地球の自転ありきのものでしかない。
もっと言うなら、「惑星の自転」が発端(因)となって場所別に恒星の光が当たったり当たらなかったりしているだけです。これは宇宙全体の相当数の惑星が同じことです。そして現に世界各国で時刻は違います。そんなものがさも普遍的に存在するかのように扱われていますが、ごく狭い地域にしか適応できないのが「時間の概念」であるはずなんです。
一方で、普遍的な概念であるものは「経過」です。宇宙誕生から「経過」して今の太陽系や地球があります。そして、「経過(=カルマ)」というくらいですから当然「因果」もあります。
僕が言わんとすることは
時間は地球上のごく狭い地域にしか適合できない概念だが、
カルマ(=経過)は宇宙創生から今現在に至るまで宇宙全体に適合されている事象である
ということです。
まとめ
我々が「時間」と呼び、あたかも普遍的な概念として扱うソレは、実のところ「カルマ=経過(つまり因果ありきのもの)」でしかないと言えるのではないでしょうか。それとは対照的に、俗に言う「時間」とは因果を伴わず、普遍的に常に流れているものとされているはずです。
前記事を含めてまとめますと、
時間は過去も未来も無いため存在しないが、
カルマは因果が存在するため普遍的に続いてきた(いる)ものである。
俗に言う常に流れている概念としての「時間」のその正体こそは因果を介在する「カルマ(経過)」である。
となります。
説明が荒削りでしたが、僕の考えはある程度まとめられたと思います。なかなか分かりにくかったかもしれませんが、まあこういう事を考えている変人もいるんだなぁと思ってやって下さい。