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青年性に就いて

 青年も晩期だと云ふ感は、此の頃私の胸に迫って来た。二十代も折り返しに近いからさう思われるのか、最早私のやうに毎日を御気楽と共に過ごすやうな同窓や友人、同志の居らないからか、さやうな感の出所は実際無数に思われるが、実際の処だうかと云われれば判らぬ、唯私は独り未だ青年を遣っていると云ふ感の有るは事実である。或る友人なぞは、其れがさも損で有るかのやうに私に云ったものである。頽落の臭いを嗅いだと云わんばかりに、早い処何処か好い勤め先を見けないば云々と、親切心でさう私に説教を呉れたものである。いや、私もさう思ふ。労働と創作は対立し得ると思ふ、労働が創作に先立つやうな関係は、寧ろ健全であるとさえ思ふ。が、私は他方、矢張り己が青年性を其の儘にして置きたいやうな趣向の強いから、だうも踏み切れぬ処が有る。
 働く者は立派だと思ふ、発展も其れ故に見込まれる事だと思ふ、発展が有れば良縁に結ばるる時がいづれ来ると思ふ。私は一日一日、小説なぞを書いて、発展の見込みを潰して居る、当然籠り切りだから良縁は自ら断ち切って居るが如くである。が、此処に若さと云ふものが有る種救いのやうに私の胸から引き出されて来るから、勿体無いとも思わずに、今日も亦延々と指先で文字の打ててしまふのである。
 私と同年の友人等は、己を青年と云ふに躊躇する人に成りつつある。我々は、真に若い者には勝てぬと云ふ弱気な発言も多々聞かれるやうに成った。流行に疲れたと云ふ者も有れば、最早酒なぞしっぽり遣る派だと云ふ者も有る。恋愛は無難に努めやうとは、彼等の合言葉である。若いなぞ思わぬ、も合言葉である、皆だうやら同じ頭に仕上がって来たやうである。
 私は青年晩期と云ふから、未だ青年であると疑わぬ。私は若い、私が若くて、彼等が若くないとは通らぬやうな理屈であるが、此れが社会と其の周縁の差と思えば、稍虚しくも有れど納得である、私もいづれさう成るのやもしれぬ。
 さりとて、社会派に属ずる彼等は未だ都会を好むやうである。彼等は、私と出は同じである、札幌に程近き、近代に金融で花を咲かせたあの港町である。其の彼等の殆どは、札幌に有る。中には進学やら就職で上京した者もちらほら有る。私は進学で釧路へ移り、其の後は稍在りてオホオツクでも山間の土地に住んで居るから、だんだん都会との縁も薄く成る一方であるが、偶に彼等と会ふと、さう顔も当時から変わらぬと云ふのに、今度の休暇で東京は何処何処へ行く積りだとか、東京の何々区のあの店はだうだやら心持立派な都会人の風を自らに吹きて、自慢の前髪を靡かせるやうな言動のまあ好く見られる。いづれは東京、と此れが口癖に成って居る人間も多い。東京で生活するが詰り生きる事だ、と云って本当に上京したT君は立派である、有言実行である。今では流行りに身を投じて日々を愉しく生きて居ると聞く、さう噂する人間は稍醜い嫌味を含ませるものであるが、此れは同郷の誼に免じて許さうと思ふ。
 別段T君の上京を偉業と迄は思わぬから、彼の事は此れ以上云ふまいが、されど私の気に成るは、東京へ出て詰りだう成る、と云ふ事である。此れには、実はもう一つ疑念の含まれて居るのであるが、其れは、では出生の東京である人間は何処へ出たいと思ふのであらう、と云ふ事である。其れが若し亜米利加であるなら、其処へ出て詰りだう成る、此の点が気に成るのである。私は特段都会に愛着の無く生まれた人間であるから、都会の何が魅力か、ちと判らぬ事が多すぎるのである。若くないとは云ふが、さう云いつつ好く好く東京へ出るは何故であらうか。いや、皆観光だと云ふ、大都会を観光しに行くのだと云ふ。成る程行くにしてもさう深い訳の有るとも限るまいが、私なぞは行くのならもっとまし訳を提げて行くが有意義であると思ふ。
と云ふのも、我々北海道の人間は、日本文化でも実物を知らぬからである、習うばかりである、内地の人間と北海道の人間との間に生ずる溝は此処に認められ得るであらう。此の溝を埋めに行くが一等有意義であると思ふ、其れで東京は好き選択であると思ふ。若くないと云いつつ、あんまり何も考えぬ処は未だ若い証拠であるか知らぬ。

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