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私に就いて 其の弐

 別段小出しに私に就いて明らかにしやうと云ふ予定の有った訳では無いが、第一に書きたる「私に就いて」を自身で読みて、私に就いて言及する処の少なきを覚えたから、此処で亦書く事にしやうと思ふ。
 生ける者には当然親が有る。犬でも猫でも、其の辺の木々でも同様である。何も無から生じた訳ではないから、脈々と紡がれる生の連関の一部として、我々は今此処に有る。故に御先祖に手を合わせるの必要も此処に生ずる訳である。
 処で、私の母方の祖父母は、駆け落ちから関係の始まったと云ふ。此れは私も、祖父母双方から聞いた話であるから真実である。放埓者の祖父が、「俺と交際しないば、此の橋から飛び降りてやるぞ、」と祖母に迫らなければ、私は出生すら出来て居らぬ、母もさうである、気弱で何処迄も人に尽くす祖母が、云わばさやうな脅迫に流され無ければ、私は居らぬ。始まりのだうであれ、今は亡き祖父母には感謝の念しか湧かぬ。
 始まりが駆け落ちで生まれた長女が、私の母である。祖父は炭鉱夫で、祖母は内職をし乍ら、介護も遣って、全然金を入れぬ祖父の分まで稼いだと云ふ話である。其の母が、初めて子を産んだのは十九か其処等である。私の兄が其の時に産まれた子である。其の五年後に、おぎゃと出て来たのが私である。実の父親は、兄と私とで異なるから、兄は背格好に恵まれて居るが、私は実に男子平均の背丈でぴたりと止まって居る。
 私と兄は、母独りを頼りにして生活して来た。其れが、どちらも大学迄続いたと云えば、母の偉大さが身に染みて感ずるであらう。「私も兄も出来てしまった子、」と云ふのは、かつて母の漏らした言葉であるが、其れに継いで、「出来てしまふも作ったも私の子であると云ふ事には変わり無いから、其処から母には成らぬと云ふ選択の思い浮かぶ訳がない。」と嘘偽りなく云ふ処に、彼女の真っ当な精神が伺えるであらう。私も兄も母を敬愛して居る、兄は教員を遣り、嫁を貰いて、仕合せに暮らして居る。私はと云ふと、まあ創作を遣る位であるから、己が一生を謳歌して居るとも云い得るであらう。

 序に一つ。
 近年と云ふか、何時の世でも有る事ではあるが、親の子を遺棄するやうな事件が度々報道されて居る。最近であると、親が赤子を燃やして殺したさうである。池に投げ捨てたりする人間も有ると聞く、自宅の庭に生き埋めにしたと云ふ話やら、飯を与えず餓死させたなぞと云ふ者迄現れて来る。誠罪深き行いである、世の親たる人間にかやうな者ばかりでは我が国の行く末が酷く不安である、未だ若い私でさえ不安であるから、きっと大勢の人間は増して不安であらうと思ふ。
 しかし、私は思ふ。さう云ふ極悪な人間の裏には、私の母のやうな敬愛すべき人間で溢れて居ると、私は思ふのである。此の世は物騒だ、皆悪党を心に飼って居るやうな感がある、騙し合い、罵り合い、僻み合いの世界である、此れは或る意味で誤りではないが、真実とは云えぬ。と云ふのも、世に明かされる事件やら何やらばかりに執着すると、確かにさやうな気がして来るからである。がしかし、実際だうであらう、我々はもっと多くの善人を知って居る筈である、其れは、我々の母や父である、兄弟である、御近所である、同僚である、友人である。現に生きて居る場所で生きると云ふ事に注力すれば好いではないか。さすれば、余りに関係の無い事々に就いて我々が如何に囚われて居たか、と云ふ事を悟り得るであらう。

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