LAP8期 自己単元 事前課題
1.はじめに
【問い】あなたは誰ですか?どこから来て、どこへ向かいますか?それは何故ですか?
私は、大自然や社会の中で生まれ、「問い」によって生き、「ありがとう」と「だいすき」に向かっていく、そんな存在でありたいと考える。
この問いは、LAPの選考課題の一つで、約一年前全く同じ問いを考えた。後々述べることになるが、この上記の「問い」がLAPでの「問い」だろう。当時の私は、「自我と他者との相互作用の中で形成され、その形成、創造、といった新陳代謝は常に行われ、多面的で流動的な存在になっているというのがこの問いの答えである。」と答えており、今でもその考えは大きく変わっているわけではない。今でも、私は他者との相互作用において自我が形成され、その形成は往々にして行われ、多様で流動的な存在だと考える。重ねていうが、今でもそう思う。ただ、この答えを見て、昨年の答えに納得することはできても、今の私が同じ問いをもったときに同じ答えを持つとは限らないとも思う(経済単元参照)。
一年間、LAPを通して、様々な他者との相互作用によってシナジーが生まれたように実感している。すべての講義やMTGに出席できたわけでもないし、すべて完璧に学びを咀嚼できたわけでもない。ただ、一年を通して唯々たのしかった。自分の中で学びや印象、消化できている部分に差はあるが、一つひとつ振り返ってみたいと思う。
2.LAPとの出会い
私がLAPを知ったのは、確か仲のいい先輩がインスタグラムのストーリーで応募募集のチラシを拡散してくれていたのが直接のきっかけだった。4月16日、そのストーリーをみたその日中に申し込みを決めた。よくよく調べていくと、同学年の友人や先輩が参加しており、モチベーションが高まったのを覚えている。また講師で、アベマでよくみる安部敏樹先生やお世話になった飯嶋秀治教授(大学一年次に少人数セミナー『中村哲を読む』でお世話になった。あれほど心地の良い講義は後にも先にもない。)の名前が並んでおり、自分が大切にしているものとLAPのビジョンが近い関係にあるような気を漠然と感じていた。さらには、自分が懇意にしていただいている小湊卓夫准教授の講義である『社会連携活動論インターンシップ』で本プロデューサーである古賀正博先生が特別講師として登壇していた。講義終わりには絶対参加させてもらえるよう不躾にも懇願にしにいったのを覚えている。まさに、僥倖ともいえる「めぐりあわせ」であった。
3.オリエンテーション
オンライン上ではあるが、14時から18時までという結構な長丁場ではじめてLAPメンバーと顔を合わせたのを覚えている。ここでは、主にLAPの基本姿勢とメンバー紹介の二部制であった。LAPの基本姿勢では、「対話の大切さ」について学んだ。私たちはつい日常生活では○○大学の出身や○○サークルに所属しているなど属性情報に焦点をあて話をする。それは悪いことではないが、一歩踏み込み「何を大切にしているのか」や「どういう生き方をしたいのか」などの深い語り合いが欠如している。LAPは、絶対的な正解がない社会の中で、正解がないからこそ謙虚に人と関わり合い、良質なリベラルアーツ教育を目指している。その後、討論や議論との違いを示しながら「対話」について説明している。そして、自己紹介をしつつ、実践的に「対話」をした。
属性情報の話に関しては、私は『今日誰のために生きる?(ひすいこたろう(著))/SHOGEN(著)/廣済堂出版)』で何をしたなどの「作業の会話」ではなく、どう感じたなどの「心の会話」を大切にする話が説かれている話と結びついた。本気で何かを語る人はやっぱり好きだし、そう在りたいと常々思う。正解がないから謙虚という因果関係に関しては、当時はわかっているようでわかっていなかった。理解には、何段階かステージがあるように思う。
4.ジェンダー単元
当日沖縄旅行のため出席できず。解せぬ。
とはいえ、全く学びがなかったわけではない。特権の話をよく覚えている。私たちは、特権を社会的に有しておる可能性を秘めており、それは特権を持っている人からすればなかなか気づけないと。オンライン上ではあるが講義を見たとき特権とは何かわかるか動画についてみたのを印象に残っている。食べ物を食べられる心配をしたことがない、学費を自腹で払っているかどうかなど質問をして一歩ずつ前に進んでいく。でも、生まれ持っているからこそ、それを持っていることに気づけない。自分の実力でレースに打ち勝ったと思いたいし、実際に一部の特権階級が努力しているのも事実である。だが、過剰な特権はやはり不条理のように感じる。社会的特権を不当に非特権階級よりも特権階級のほうが優位に所有するため、どうせ無理だと意欲が損なわれてしまう。そして、その意欲の損失という「結果」を「原因」として、彼らは無能だから非特権階級になるのだという論法が出てくる。また、ノブレスオブリージュという考えを初めて知ったのもこの時のMTGであった。私は私自身が見えにくいものを持っていること、そして、私は社会的な存在であるという事を自覚した。
(参考動画)
【日本語字幕つき】特権とは?がわかる動画【Privilege Explained】
5.コンピュータサイエンス単元
私たちの社会は大量の情報が溢れている。いわゆる、情報爆発である。そして、情報加工業の中で生きているという事。たくさんの情報を選択して受け取りそれを自分なりに咀嚼する。従来は、情報を探査する時代だったが、現代社会は大量の情報(≒潜在的宝物)を選択する時代になっていると。だからこそ、その加工された情報を立ち返り、一次情報に着目してほしいと。新しいこと(変化)に常に注目して、そこに価値を見出している生き方が印象に残る講義であったが、それには一次情報に立ち返る姿勢が必要であるということを学んだ。確かに、私たちの生活は何度も加工された正しいか間違っているかもよくわからない情報に何度も左右されている。ただ、私はそれと同時に多くの一次情報にも触れている。突き詰めれば、一次情報とは「ともだち」のように思う。私とコミュニケーションを取る他者のように思う。そういった「ともだち」とのかかわりの中で、「問い」をもつことが一次情報に触れるという事ではないかとぼんやりと思う。
7.経済単元
2日間、津屋崎にてモヤモヤする時間を過ごした。モヤモヤとは矛盾である。矛盾とは原動力である。間違っている部分もあるかもしれないが、ヘーゲルの弁証法とはつまるところ矛盾を原動力としている。矛盾なしには発展もないのである。さて、この二日間はそういった矛盾に満ち満ちた時間だった。それは全て全力投球で投げられる他者がいたからである。一緒に感情のキャッチボールをしてくれた人、その時間を準備してくれた人など、感謝をしてもしつくせない。
気づきとして私は二つ挙げている。(過去のフェイスブック参照)
一つ目は、対話。社会の高度化や社会の見え方は複数あることから現代社会は唯一解の存在しない社会になっている。結果、価値観のすり合わせが必要。そのすり合わせの手段として対話(正解がないから、頭を使って考えなくてはいけない。本気でぶつかる)が出てくる。ただし、正解がないからすっきりしない(モヤモヤする)そうやって、自分自身を再構成する。対話とは、自己実現をもたらす手段である。ただし、そこでの自己実現は、ブームが生じている可能性がある。私という存在は今までの外界との関わりでの思い出の合計で、私の価値基準は今日までの僕の感情の最大公約数(最小公倍数の域には達していない)なのかもしれないと。
二つ目は、問い。何度も何度も同じ「問い」を繰り返した。そのときどきで、少しづつ言葉が変わるが、その時の心境の変化を踏まえて、その時の僕の一番しっくりくる言葉を表現している。莫大な情報が留めなく受け取っている今、一つのことに向き合う時間はあまりに少ないように感じられる。ただ流されて、数年、数か月、時には数週間で終るブームを必死で追いかけ常に最先端を追いかけている。だけど、そこに大切なモノは見落としていないか、ただ処理するだけの毎日になっていないかたまに不安に思う。自分自身の"変化"を感じているか。「誰かと一緒に何かを感じ、考えて、大切だと思うものを大切にしようとする」、それが僕にとってのテーマだ。どんな人と一緒に、時間や感情、考えを共有したいのだろうか。どんなものを大切にするのだろうか。その問いに向き合い続けること、それが僕の生きてきた轍が僕らしく前を向く(≒生き抜く)ことなんじゃないかと考えさせられる講義だった。
8.自然の摂理単元
自然の中の自分、それを強く感じた講義であった。私はついつい自分を中心に物事を考えてしまう。自分の捉えた世界が全世界だと思ってしまう。しかし、私はみることができない世界も当然存在する。当然のことではあるが、私は自分の背中をみることもできないように。自然は循環している。中村哲さんの活動のように、自分たちは自然の一部もしくは自然そのものだという謙虚さを忘れていない。自然は非常に規模が大きい。だから循環している。でも実際の自分の生活は自然から離れていてそれに不快感を抱き、自然に立脚した生活を出来たらいいなあと思う。つまり自然の循環の中で生きている感覚を、自然と共に生きている感覚を、生命に直面している感覚を大切にしたいなあと思った。なんとなく僕には「闘う」ことよりも汗水たらして「草むしり」をしているほうが楽しかったりするような人間だなあと思った。
9.特別講義
アベマでよく見ている安部敏樹先生が講師である。九大祭もそっちのけで友人らにも旅行も少しずらしてもらい参加した。印象に残っていることは、講義の中で問われた「社会課題の定義」である。安部敏樹先生は、社会課題とは、社会が定義する課題というよりはある社会現象を課題と認識する集団を社会と言うのではないか。つまり、その苦しみを共感できる人、その社会現象に問題意識を持つ人が集まり生まれたのが社会なのではないかと提示された。それを課題だと認識することで社会が生まれると。社会課題とは何かと問われて、社会の定義を答えて、社会との関係性から定義するのは大変面白いと感じた。また、講義終了後で質問した「シャカイカダイへの関心の是非」が強く印象に残っている。安部敏樹先生は、幸せになる勘違いするサイクルがあるとおっしゃっていた。私が所属する共創学部は社会課題を解決するために何度も興味もしくはアプローチしたい社会課題を聞いてくる。ちょっぴりそれにウンザリしている私は、社会課題にどうして興味を持てるのか講義終了後の懇親会で伺った。明らかに自分とは関係のないテーマで一次情報が取れない中、不正確な情報から、ネットに溢れる自称コメンテーターの稚拙な批判・評価に嫌悪感をもっていたからだ。自分は目の前の困っている人を助けること、それが社会課題解決であり、「ショウシカ」や「チキュウオンダンカ」など実感のない問題には距離を置きたかった(ミルズはもしかしたら社会学的想像力の欠如だと批判するかもしれないが…)。問いの理由を含めて説明し、どうして社会にそんなに関心を持てるのか安部先生に尋ねると次のように答えてくださった。確かに自分には直接関係のないことかもしれないけれど、その関係のないことをいっぱい調べて考えて二時間くらいコメントしているといつの間にか当事者になっていく。そして、当事者になったと勘違いして、そういった人たちのために行動していくとだんだん楽しくなっていくと。少し気が楽になる答えだった。確かに、そうやって自分の世界にシャカイカダイを入れ込んでもいいのかなと思った。私は一人で生きているわけではないのだから、やっぱり不条理な現実は変えるべきだと思うし、目の前にいる人だけを助けているのでは(当事者だけでは)解決できない問題があると思う。知らないと思っている無知だと自覚する人(非当事者)がそういった問題に考えを巡らせ何かしたいと思うこと、それ自体は素敵だと感じた。今でも、自分が正しいと思っていて強い言葉で相手を黙らせるような言葉や誹謗中傷はひどく嫌いだけど、知らなくても知らないかもしれないけどその姿勢を持ちながら何か表現してもいいのかなって思った。
さて本講義を経て、社会の見方が変化した。
私は社会を二分して考えるようになった。一つはトップダウン型社会である。ある程度長い期間存在して、虚構として確固たる存在として確立している社会。国家や歴史ある宗教、貨幣社会や男性社会…。ジェンダー単元における特権が生まれる理由はこのトップダウン型社会が存在するからだ。それに対して、ボトムアップ型社会。これは自分たちが主体的につくろうとして生まれた社会である。学校での仲のいいグループやサークル、ママ友、lapなどが該当する。特別講義で安倍先生が社会課題の定義の時に説明された、あるグループを課題だと認識することで生まれる社会はボトムアップ型社会に該当する。
10.芸術単元
大学の講義のため出席できず。解せぬ。
ここでは、MTGで自分以上に自分の気持ちを表現してくれたことを思い出す。私は下の問いで、ジブリ映画の一つ、『もののけ姫』を出した。形式主義(HOWどう伝えるかかが重要)と内容主義(WHAT何を伝えるかが重要)の観点で『もののけ姫』について捉えた。形式主義的視点の本作の魅力は、「心地が良い気持ち悪さ」である。シシ神やコダマはかわいいけど不気味である。こういった表現は同じチームメンバーとの対話の中で引きだされた。自分が思っている言葉を相手の情報加工(コンピュータサイエンス単元参照)によって、どんどん自分の中でしっくりする言葉(経済単元参照)を探し始める、引き出される。そういった中で楽しいことが自分を可視化・再構成する(経済単元参照)。チームMTGの楽しさをよく覚えている。一方で内容主義については「文明VS自然」という構図である。女奴隷やハンセン病の患者を助けるためには資金調達として鉄をつくるため、つまり人間の営みをするには、山を削ることが必要だった。自然の摂理単元ともつながる「自然との共存」がテーマの作品のように感じた。
11.宗教単元
私が敬愛する飯嶋秀治教授の講義である。私が言い出しっぺだったスキーの予定をずらしてもらうほど行きたかった。やっぱり、飯嶋先生の講義はおもしろい。脳汁が出まくる感覚がある。脳汁ブッシャ―である。声のトーンや話し方すら心地よく思えてくる。さてここら辺で俗語はおえ本題に入っておこうと思う。講義の序盤では、今までの単元の復習(発問)をして、それぞれの単元と宗教とのかかわりをご教示いただいた。関連性を生み出すことで、学びが深化していくと。いわゆる知のネットワーク化である。中村哲記念講座のTAをしたときのフィードバックで私は偉そうに、ある生徒に「過去ある視点と結びつくということ、これからの視点を考えていくこと、そういった知のネットワーク化こそが「深い学び」だと聴いたことがあります。「深い学び」を実現できるようこれからも励んでいきましょう(特に自分)。」と書いてある。今こうして、わざわざ一年を丁寧に振り返っているのもこの講義で飯嶋先生が振り返りをする大切さを示唆して下さったところによるところが大きい。
印象に残っていることは、事前課題でもある「宗教」の定義である。「互酬性」がキーワードだった。経済は、互酬性が歴史的に共通する。一方でそれを生み出す存在(自然や自身の命など)は支配下におけない領域なのでそこにアプローチするため宗教が出てくると。宗教っていうのは、最大多数の人が欠食しないこと(=幸せになること)を目的にアプローチする特徴が宗教のベースにあること学んだ。人は生きること、つまりごはんを食べることから宗教が誕生しているのかもしれないと思うとこれからのごはんは死んだ命でいっぱいで少し違うご飯になるなと思った。私は、事前課題で人間の最大の恐怖は「わからないこと」であり、それを恐れて恋人や家族やお金や科学や宗教を用いて安心しようとしていると考えてた。そのため講義前では宗教は「わからない体験に対して絶対的な存在を生み出し精神を安定(=幸福)させるもの」としたが心身一元論ではないが身体安定をベースとした幸福があるのかもしれないと思った。健康な身体性と精神性にこそ、幸福は宿るのである。
あとはなんでかよくわからないが講義の終盤に紹介された著書が印象に残っている。『センチメンタルな旅・冬の旅(荒木経惟(著)/新潮社)』だ。夫婦の結婚から病気、死までの生活を写真におさめたものだが印象によく残った。絶望的なときは空洞を見るシーンなど、心の変化が詳細に写真に収められている。次に『あなたはそこに(谷川俊太郎(著))』を例を出し、生きている時よりも忘れられない関係を出している。恋人関係もまた互酬性。お互いが支え合って生かしあっている。片方がいなくなった。もらったのに返せない状態。
最後に飯嶋先生はこうおっしゃている。いのちの互酬性こそが人間と宗教の接触点だと。そして、宗教は市民宗教となってカタチをかえて私たちの生活で生きていくと。
12.国家単元
印象に残っていることは、ミクロな視点からマクロな視点までの拡大・縮小を自在に行う大切さである。
講義は、歴史的に日本史も世界史も含め人類史をざっと分析する流れだった。ズームインとズームアウトの繰り返しであった。歴史的ではないが人間レベルを見たときに、私たちの細胞がいかに中身がスカスカで、宇宙がいかに広大でほとんど空っぽなのかを示したことが印象に残っている。ほぼ空洞の宇宙にほぼ空洞の存在として生きている存在が我々人間だと。まさに「一切皆空」だと。日本史に関しては、受験科目だったためある程度聞いたことがある話も多かったが(ほとんど覚えていない)、歴史をそうやって解釈するのかと違った視点があり興味深かった。世界史に関してはほぼ知らない情報でそんな流れがあったのかと思った。視座の高い人は、こうやって世界を捉えるのかと感じる講義であった。歴史を学ぶと、人類にとって「恒久的問い」がみえてくる。なにを人類は常に問いとしてきたのか。それをどういうふうに乗り越えようと試みたのか。講義では、その恒久的問いとして、「暴力をどう減らすか」という問いを挙げられた。哲学や近代国家をつくることでそれを乗り越えようとしてきたと学んだ。人類における「恒久的問い」とは何なのか。LAPにおける「恒久的問い」とは何なのか(はじめに参照)。自分にとっての「恒久的問い」とは何なのか、考えさせられる講義であった。
13.全体のリフレクション(自分はどこから来るのか)
さて、長々と各単元のリフレクションを繰り返すこと(≒「新しい視点」が何か問い続けること)をしてみた。長々と書いているので、読者も書き手の私も疲労困憊である。過去の凝縮されたメモや文章を解凍させ、元の時間に戻し、他者(ここでは過去の自分)に寄り添う事、これは本当にめんどうでつかれる。しかし、こういった「想像(解凍)」は生きた情報を私に届けてくれるような気がする(弁明)。
一年を通して、振り返ると経済単元での気づきと重なってしまうが、やはり「問い」と「対話」がLAPでの営みと言えるだろう。すべての単元でそれぞれ事前課題という「問い」をたてられ、それをチームメンバーと「対話」を通して自分の世界を豊かにする(=再構成する)。
特権などを有し社会的価値を生まれもった社会的存在としての自分。情報加工社会の中での一次情報である重要な他者との関わりの重要性。何を問いに持ち続け、それを、他者と「対話」を通して自己の再構成を図る心地よさとしんどさ。大きすぎる自然の中で生かされている自分とその自分の自然への接触。同じ問題意識•問いを持つことで生まれる社会に生きる自分。何をどうやって伝えるのか、伝えたいと思う自分なのか。人間には超越•支配できない存在(わからないもの)との接触があるということ。ミクロな視点からマクロな視点に拡大する見方をもちいた自己の恒久的問い。
生まれた時点である程度自己は定まってくる。自然の循環の中で生まれ(環境の影響を受けた自己)、日本人として父と母の子どもとして生まれる自己(人間社会が与える影響で生まれる自己)がつくられる。幸か不幸か、生まれてくる環境や社会は自分では選択できない。主体性を持って世に誕生することなど不可能なのである。私の生命が私だけでないもの、天からの授かりものという漠然とした実感はここからくる。私たちは、自然の一部分ないしは自然そのものとして生を受け、おやの産もうとする主体的行動によって誕生した。私たちは、私たちの主体性によって誕生したのではない。全くの他者による主体性によって誕生したのだ。広大な自然の中で、他者(おや)の主体的行動で私たちは生まれている。さらに、善悪は抜きにして、ある程度、どのトップダウン型社会で生まれるかによって大体決まってくる。どんな経済状況、政治的安定性の国家なのか、どういった文化を持つのかなどによって人は大きく変わる。そういったマクロなものの中の一つとして私たちは誕生する。だが生きていくと、マクロな存在としての自分だけでなく、自分がどんな他者と一緒に生きたいのかが迫られてくる。ボトムアップ型社会の形成である。世界には「わからないこと」が蔓延っている。ホモ・サピエンスはどうもこの「わからないこと」が気に食わず「知る」という信仰を持ちたいと考える。それは宗教や科学というマクロなものにまで及ぶが、ミクロなものとして友人やサークル、恋人などが誕生させる。そういったミクロな社会を私たちは生成する。そこでは、何をわからないとするのか、言い換えれば何を「問い」に持つのかが重要になってくる。「問い」が決定論的に私をカタチづけてくれる。そして、その問いはこれを伝えたい、伝えられたいという感情共有欲(感情を共有したい欲求、共に生きているという感覚を得たい欲求)に変化する。そして、その後は人によって異なるが、その伝え方の一つが対話だった。「対話」がその欲求を満たす手段だったのだ。対話とは価値観のすみ合わせ、もっと言えば結論を必要としない。対話でのテーマが「問い」である。問いは解決が目的ではなく、問いは「ともだち」をつくるのが目的なのである。「ともだち」とは重要な他者(ペットや自然も含む)である(コンピュータサイエンス単元参照)。
14.生きる意味なんて…(どこへ向かうのか)
ところでLAPの選考課題としてこの問いのほかに「LAPに参加する理由」があった。そこで私は、「大切だと考えることを、大切にしようとしたいから」と素朴な答えを出していた。それというのも、自分自身がついつい「緊急性が低く、重要なこと」なことに注力するのを後回しにしてしまっていたからとさらに説明している。その「緊急性が低く、重要なこと」なことの例として、私はさらっと「生きる意味」というのを出している。全く勘弁してほしいものである。そんなにさらっと問いに持ったら後々の自分の負担が得大きくなってしまう。誰がそれを考えるのか、それにどれだけ向き合うのがどれほど大変ことかまるで自分は過去の自分はわかっていないように思える。ため息をつきながら、思いつくままにその「重要なこと」について考えてみる。生きる意味なんて幸せになるためでいいんじゃないかということも出てくるし、そもそも生きる意味なんてないんじゃないかとも思う。とはいえ、実存は本質に先立つ(byサルトル)、つまり人間の本質、意味が後で規定されるとも思う。だが、とはいっても幸せになるために生きているにしては「幸せだなあ」と感じることはほとんどない。こんなことを考え始めると、まったくもう頭がこんがらがってくる。
さて、そんな「問い」をもちながら生きてきた中、私にも興奮するほどの「幸せ」が舞い降りてきた。友達に恋人ができたのである。非常に俗世的なことのように思えるかもしれないが、はっきり断言できる。私は確実に幸せだった。今でも、あの瞬間を思い出すと興奮してくる。本当に心の底からうれしかった。今だと「汝自身を知れ」と誰かに言われる気もするが(ホントに勘弁してほしい笑笑)、自分のことは棚に上げて歓喜した。傲慢にも、「意外と世界もわかってるじゃないか」とニヤニヤし始めていた自分を思い出す。本当に、その友人はいい奴なのである。確信をもって言えるほど、サイコーな奴なのである。今でも、本当におめでとう!!幸せになりやがれ!!と思う。まさに有頂天外、狂喜乱舞である。そのとき、私は大袈裟に、世界に感謝した笑笑。この「ありがとう」を誰かに伝えたいと。だいすきだ、せかいと。
私は「生きる意味」なんてのは、そんなもんじゃないかと思う。「ありがとう」と伝えること、伝えられること。「だいすき」を伝えること、伝えられること。そんな程度で生きられるし、そんな程度の方が生きやすい。私たちは、「ありがとう」と「だいすき」を伝えるために、世界に誕生したと。恥ずかしげもなく語るのであれば、「感謝」と「愛」以上に何を世界に伝えたいと思うのかと私は思う。どっかのアニメかなんかで人生は優しくなるためにあるという言葉があった。調べてみると、見たことないアニメだったのでどういう文脈の言葉なのかわからないが、優しいってのはありがとうとだいすきなんだと思う。他者との最大公約数を探ることが寄り添いで、最小公倍数をつくることが仕合せだと思っている。そしてその最大公約数と最小公倍数の組み合わせが上手な人が優しい人なんだと。
そして、その寄り添いや仕合わせにはありがとうとだいすきが不可欠なんだ。
ならば、簡単に私たちは幸せになれるではないか。だって、「ありがとう」と「だいすき」を伝えればいいのだから。私たちはもっと幸せになれるという思い込める、確信することができる。私が向かっていく先は、「ありがとう」と「だいすき」である。
LAPで、私は多くの存在と出会った。このLAPを紹介してくれた人、社会を牽引する講師陣はおろか、LAPを運営するサポーターの皆様、そして一緒に学び深め合っていく仲間・・・。本気で「コミュニケーションの体当たり」が幾度もできた。かっこつけていうのであれば、「めぐり合わせ」(LAPとの出会い参照)である。「この世は全て強い望みの赴くままに・・・巡り合う歯車なので(『ワンピース』のヴァン・オーガーの名言)」あり、巡り合わせとは「仕合せ」だと思う。仕合せとは、様々なことが重なり合って今があるという意味である。そこから転じてずっとこのままでいたいという意味になった。様々な自分に相互作用を、シナジー生み出す他者との巡り合い、出会い、それは仕合せである。私は「仕合せ(≒幸せ)」だった。そして、幸せだとおもったら、ありがとうとだいすきを言いたくなってくる。幸せはめぐり、まわり続ける。そのため、私が最後を締めくくる言葉はありふれた言葉である。
LAPにめぐりあわせてくれてた人、熱く深い学びを提供して下さる講師の皆様、LAP運営の皆様、MTGを繰り返し行い対話した皆、その他、一緒に時間や感情を共有した全ての方々に心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。