幸福否定の研究ー6【一般的に見られる愛情否定①】
注:この記事は2012年~2013年にかけてウェブスペース En-Sophに掲載された記事の転載になります。
【幸福否定の研究とは?】
勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究の紹介。
今回は、一般的にもわかりやすい"愛情否定”を紹介したいと思います。
友人、知人などとの普段の会話の中でも、
・何度も同じタイプを付き合い失敗する。
・どちらかが追いかけると、どちらかが離れるという事を繰り返す。(自分から別れたいと言いながら、寄りを戻したいなど)
・何年も相手の悪口を言い、別れると言いながら結局別れない。(これは愛情否定でもありますが、心理的な距離が縮まっているので愛情が深まっているケースです)
といった話題はよく耳にするのではないでしょうか。
私自身、病気に関する幸福否定は、治療を通じての経験もあったので比較的容易に理解できました。この愛情否定に関しては、人生経験の不足もあり、幸福否定の観点から考えた事もありませんでしたが、指摘されればその通り、と納得してしまいました。
仕事柄、女性と話をする事が多いのですが、独身でオシャレもしていて仕事も順調、恋愛もしている女性がどことなく不安定で(脈絡もなく施術中に泣きだしたり…という経験もあります)旦那さんの悪口ばかり言っているオバサンのほうが、精神的に安定しているように感じてはいたのですが、なぜそうなるのかも理解することができました。
以下、笠原氏の 心の研究室 「恋愛感情と愛情」 から要約、引用します。
・ 愛情が深くなると倦怠期という段階が訪れる
(心理的な距離が近くなる)遠慮が無くなり、自分の欠点を見せ始め、相手の欠点が鼻につくようになり、顔を合わせるのが嫌になる。また、身体的な接触を嫌う事もある。一般的には"愛情がなくなった”と勘違いされる。自然な経過なので、恋人同士の頃のようにもとに戻る事はない。
・ 愛情否定が強いと心理的距離が遠い関係を続ける事になる。
傍から見ると、揉め事もなく仲むつまじく見えるが、 何年経っても他人行儀から抜け出す事ができない。(恋人や愛人に対するような関係が続く)周囲から見ると、一見仲むつまじいが、他人行儀な態度をとり続けている様子は奇異に見える。また、心理的に近い距離になれないため、恋人の状態を繰り返す場合は、相手を何度も変える事になる。
・愛情が深くなると、その先はどうなるのか?
単なる同居人になってしまうのか? (注1)妻と愛人との比較がヒントになる。
以上 要約
"この先を考えるヒントになるのは、たとえば妻と愛人の比較です。妻と愛人とがいる男性が、交通事故や脳卒中で寝たきりになったとします。そうすると、この男性を介護するのはどちらでしょうか。意識では、この男性は、妻よりも愛人のほうにはるか“愛情”を感じているはずです。 (中略)
ここではっきりしているのは、よほど特殊な事情でもない限り、愛人が妻を差し置いて介護することはないということです。それは、日陰の存在だからとか、その義務がないためということではなく、そういう間柄 ―法的な意味ではなく、心理的な意味での間柄― にないからでしょう。
長年同居している場合を別にすれば、愛人とは、妻と違って表面的な関係にすぎず、「雨降って地固まる」という経過を何度となく繰りかえしてきたような、親密な間柄ではないのです。
では、妻は、単なる義務意識や損得勘定から、自分が嫌悪する夫の介護をしぶしぶするのでしょうか。 "
以上、引用 心の研究室 「恋愛感情と愛情」
結論は、義務意識や損得勘定ではなく愛情という事になります。
引用ばかりになってしまいますが、次回、"義務意識や損得勘定ではなく愛情"という部分の検証を紹介したいと思います。
(続く)
注1:
30代の女性から"友人が旦那さんの事を"同居人”と呼びだすと、離婚の話になる事が多い”という話を聞いたことがあります。もともと愛情がない相手と結婚したために、本当の意味で同居人のようになってしまう場合と、距離が近づいたため愛情否定が強くなり、接触を嫌いだす場合の両方が考えられますが、愛情否定のほうが多いでしょう。
文:ファミリー矯正院 心理療法室 /渡辺 俊介