小学校の研究発表会で「視座の転換」は起きるのか⁉|京都市立葵小学校
2017年から対話の取り組みを支援している京都市立葵小学校の研究発表会。
毎年新たな挑戦をし続けている葵小だが、これまで外部から学んだ叡智を「葵小学校のDNA」に取り入れ、先生方の深い探究によって共創造された「葵小オリジナル」な授業や関係性に進化していて、今年も圧巻の研究発表会だった。葵小の何がすごいのか、何回かに分けてレポートしていきたい。
当日私は、恒例となった全体対話のファシリテーションを担当。今年は参加条件を教育関係者に絞ったものの、北海道から九州まで全国各地から200名超えの先生方が参加。エントリーの途中で満席となり、かなりお断りをしたそうで、全て受けていたら400名ほどになっていたようだ。
公開授業の後、体育館に集まってきた参加者の皆さん。まずは、京都教育大学の水本先生と京都市教委の福谷さん、そして葵小の先生方が登壇してトークセッション。若手からベテランまで、対話を実践してきた先生方のリアルな体験が話され、ゲストのお二人が葵小の実践をもとに生徒指導提要に「学習する組織」が明記されたことの意義についてお話しくださった。その後、全体で実際に体験してもらう対話パートへ。
200名80分で「視座の転換」を起こす?
今回、事前打ち合わせで市村(いちむら)校長から依頼されたオーダーは、「200名80分で「視座の転換」を起こしてほしい」ということ。・・ほんといつも、市村校長に鍛えていただいておりますw
あまりにもチャレンジングではあるけれど、市村校長はいつもはっきりと「意図」を提示し、揺るがずにいてくれるため、私も遠慮せず思いきり新たなものを生み出していくことができる。Power withな信頼と共創造がそこにある。
そして何より、私自身が対話の可能性への挑戦を体現し続けることが、日々チャレンジしている葵小の先生たちへのエールになるのだと思っている。
そして始まった全体対話。
最初は何をやらされるのか怪訝そうな表情の方もいたが、「皆さんでこの場でやってみましょう!」のかけ声に深く頷く方や前のめりな方も多く、実際に対話を体験してみたいという様子が伝わってくる。
今回は、葵小でもこれまで何度もやってきた「対立を超えた対話」演習の簡易版を200名でやってみる。
まずは私から、対話のための「問い」を投げかける。その問いに対して、自分の内側でどんな反応が起こるか。あるいは、自分の組織にその問いを出した時、場にはどんな反応が起こるかを感じてもらい、肯定派や否定派など、3つのエリアに移動してもらう。
先生たちの本音が場に現れてくる
それぞれ異なる「意見」の先生たちのリアルな声を、まずは聞き合っていく。
先生たちの本音が場に現れてくる。
個人の声は、構造の声。ここのいる先生たちに起きていることは、他の学校や地域、全国の学校でも同じことが起きている。
対立している意見を主張しあう議論に終わりはない。相手の意見に同意はしなくても、その意見の奥にある「願い」に意識を向けることはできる。自分とは異なる意見や立場の相手の「願い」は何か、を共に探究していく。
挑戦する自分を「信じて」ほしかった
とおっしゃっていたA先生の願いは何か。みんなに自分を受け入れてもらえず、辛くて悲しかった。。本当にほしかったことは、「平和」「つながり」だけど「挑戦」もしたい!そして、挑戦する自分を「信じて」ほしかった。
変わりたくないわけじゃなくて、変えられることが嫌だった
話を聞いてもらう中で、気づきに変化が起きたB先生。
私が言いたかったことは、そこに愛はあるんか?ということ
関西弁のC先生は、この対話が始まった最初からずっと自校の校長へ悪態をついていらっしゃった。
初対面の他校の先生たち4名が、C先生の声を受け止め、その奥から聞こえてきた願いを出していく。C先生の表情やまとっていた空気感が、氷が溶けるようにみるみる溶けていく。C先生が選んだニーズは、「愛」「支え・助け」「お互いが満たされること」
自分の中にあった「愛」のニーズに触れて、柔らかい表情になったA先生へ「愛から学校を変えていく変化の源」となることをリクエストしたら、まんざらでもない表情で頷き、『そういえば、、最近めっきり校長と話をしていなかったことに気づきました。早速、明日から毎日校長室の扉をノックしようと思います!!いやー、これ、なんぼ払えばいいですか?笑』と、会場に爆笑を起こしていらっしゃった。
教師は生粋の「学習者」
今回の対話で感じたことは、何より教師は生粋の「学習者」なのだなということ。「学習する組織」を目指すには、まず一人ひとりが「学習する個人」になっていくことが大前提。
〈学習する〉とは、問題が他人(外側)にあるのではなく、自分の内側の何が妨げているのかと探究する姿勢。押しつけでも受け身でもなく、過去や未来のどちらかにも縛られない。他責か自責かだけを志向しない。学習者としての中庸なあり方。
日々の忙しさから、心の余白が狭くなるとどうしても課題解決思考に向かってしまう。でも、本来「学習者」である先生たちは、心身ともにスペースを取って内省し、自己や他者との対話をすると、おのずとそこから「何を学ぶか」へ意識が向かっていくのだということを、今回あらためて実感した。
「視座」とは何か。「物事をどの位置から捉えるか?」という物事を見る上での立ち位置(座)。
「自分は正しい」という座から降り、相手や多角的な視座に意識を向けるためには、まず「自分の命の声」を聴いてもらう必要がある。
まず「自分の命の声」を聴いてもらう必要がある
人は、自分の声を聴いてもらい、自分の「願い」に気づいて(アウェアネス)言葉で表現できると、その「正しさ(存在)」を証明し続ける必要がなくなっていく。そして、どんな相手にも「願い」があるんだということに気づき、「気づきの連鎖」が起きていく。
先生(大人)が満たされていない職場で、子どもが満たされる学校をつくることはできない。
先生一人ひとりの「命の声」が、正しさによってかき消されず、大切に聴いてもらえることで、先生たちもまた、子ども一人ひとりの「命の声」を聴くことができる。
学校がそこにいるすべての人の「命の声」を聴き合う場となるよう、心から意図している。