戦略的モラトリアム㉓

二〇〇〇年  七月 下旬    天気 快晴      場所 寮 
   精神状態 夜の街灯くらい明るい気持ち

夏のある日。専門学校は夏季休暇で寮にはひと時の静寂が羽を伸ばしていた。人の気配も二、三人あるがそいつらは一体なぜ実家に帰らないのだろう?僕と同じ境遇ではないと思いながら、そいつらと夏休みの予定について話した。
 「夏休みはどうしてるの?」
 「静かだし、寮でゴロゴロしてるつもり。」
 「そっか。確かにね。」
 「お前は何やってんの?」
 
言葉に詰まるが、正直に言うことにした。
 「バイト。警備員の。夜勤あるし、忙しいんだ。」
 「頑張るねえ。」
 なんて、その後二、三言交わすと、互いに部屋に戻っていった。

 その日の夜勤はとてもきつく、関東の夏は一層僕の体にダメージを与えていた。

深夜一二時。道路で誘導棒を振る僕は、いかにも疲れてる顔で対向車両に呼びかける。地上から吹き上げる熱風。アスファルトフライパン。重機の憂鬱音。向かいのコンビ二。ビルの明かりと電車の発車音。そして、何百人と行き交う人々。
僕の憧れていた東京。冷たい東京。無干渉地帯東京。東京、東京、東京……。

暑さと眠気でダウン寸前の案山子は、ズボンの後ろポケットに入っている単語帳からエネルギーをもらって何とかバイトをやりぬいた。このポケットのふくらみこそが僕唯一の生きる望みだったんだ。これさえあれば何だってできるって思えた。不思議と勇気がわいてくるような気がして、そっと唇を噛みしめ、時間が過ぎていった。

正直、意外だった。動機不純の大学入学願望でここまで頑張れるとはね。案外、僕にとって真剣な願いだったのかもしれないね。社会的にどうとか、そんな判断は別にしてね。

何とか終電に間に合いそうだ。早めに終わったバイトだったので、僕は急いで駅に向かった。
「おつかれさまでした!」
現場監督と同僚に挨拶して、とても爽快な気分になった。

一人暮らしで僕は少しずつ社会的常識ってのを我流で覚えていったんだ。それがいかに表層的なものであっても、自分で覚えることがとても新鮮であった。誰かに無理強いされてやるのとは大違いで、すんなり僕の中に社交辞令が入ってきたことがよく分かっていた。

最終電車の中は都会の中で埋もれた人間がふと顔を出す瞬間でもある。
よっぱらって長椅子に寝るオヤジ。ワケありの顔で遠い目をする窓際の彼女。疲れ果てて眠る少年。
都会の残土がここにはたくさんあった。僕もその一つか?そうは思いたくないが……。電車の窓に映るネオン群と車内の風景のコントラストがこんなにも鮮明な対照画像。僕の明日に不安を覚えたりもするような光景は僕を少し病ませてくれたんだ。すっかり鬱になった僕は人間のとっても深い底まで思いを巡らせていた。

ボロボロになった精神力と、汗でびしょ濡れになった体を引きずって、翌朝、寮に戻るとひんやりとした食堂の空気で無人の「お帰り」を受けた。冷たいエアコンの空気に寮で暮らす人々の温かさを感じながら、風呂に入り、バイトの疲れを癒した。
たとえそれが偶然であっても、冷たい無人の空間に僕は人の温もりを感じたことにして、どこかホッとした気持ちになって部屋に戻ったんだ。その日はほんの少しだけ深い眠りにつけたと思う。

僕は確かにその時、確実に「生きていた。」

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》