戦略的モラトリアム⑫

一九九九年 七月上旬    天気 雨    場所 某地方都市
    精神状態 不安と鬱

僕の決戦日が近づいてきた。僕にとっては、あと数ヶ月、あいつらと同じ立場でいられるかどうかという重大な局面。予備校の勉強にはちょっと集中できない精神状態が続いていた。しかも、それは日増しに強くなる。不安感をあおる時計の秒針。まるで僕に「寝るな。」と脅迫する偶数拍。睡眠不足の頭に新聞配達はちとキツイが何とか毎日乗り越えている。僕にはこのチャンスしかないんだ。このチャンスを逃したら、また一年待たなければならない。僕にはそんな時間、いや、気力は残ってなかった。都会の喧騒の中、僕の心は何かを決意したように静まり返っていた。それは決して落ち着いていたんじゃない。僕の中でどんなにもがこうともやってくる、来るべき日の備え、迎え撃つ準備をしていたんだ、誰にも悟られぬように。

翌日に大検を控えた朝、僕は予備校を休むべきか迷っていた。家で自学自習というのがおそらく一番よい選択肢であると思われる。しかし、僕には、この土地で勉強をすることに非常に強い抵抗を覚えていた。それは学校を休み始めたあの日から……。
のどかな風景、傍らでは猫の欠伸。空は広くて、突き抜けるような様相。僕にはこの環境がたまらないほど嫌いだ。神様から
「お前はずっとそこでそうしていろ。」
って、言われている気がする。それは僕にたまらない圧迫感を与えるんだ。
「うるせーよ!こんなとこじゃ何もできねーよ!」
そう叫ぶと、勉強道具をバッグに詰め込んで、家を出た。駅に着いて、電車に飛び乗り、僕はいつものように予備校に向かった。そのうちに気が休まり、いつものように一日が始まるんだと思えるほど楽な気持ちになった。

予備校に着くと講義には出ず、自習室に向かう。講義中ともあって、自習室には数人のしかいない。僕はおもむろに生活科の教科書を取り出し、勉強しだした。いかにも異様な光景である。予備校で浪人生が生活科の勉強……。大検に備えてとはいうもののちょっと気まずい。表紙を見られないように勉強する僕は、まるでエロ本をコッソリ見るような振舞いをしていたと思う。
チャイムが鳴り、昼休みになった。自習室がどっと賑わいをみせる。僕はその頃、すでに世界史の勉強にスイッチしていたので、あまり奇異な目で見られずに済んだ。しかし、ふと肩を叩く人。
「おいっ!サボり魔。てっめー、午前中サボりやがったな!」
 コンだ。ヘッドロックされたまま、僕は自習室を出た。外に出るとケイとヤスが待っていた。
 「寝坊でもしたか?」
 「休み癖つくと、後で取り返しつかないことになるぞ。」
 どうやら、あまり怪しまれずに済みそうだ。というのも、僕はこの日まで予備校を遅刻、欠席したことがない。いわゆる無遅刻無欠席ってやつだった。なんと奇跡的なことだろう。殊更、僕の場合は天変地異でも起こるんじゃないかと懸念される出来事であった。まあ、ノストラダムスの予言も今年だし、天変地異は起こるかもね。
 とにかく、そんな僕が午前中全欠席するのは、四人組の中で言えば、ちょいとした事件であった。
 「午後は出るんだろ?」
 「ああ。」
 安易に同意してしまった。僕はその応対に痛切に後悔した。まあ、午後の自習室の使用状況は結構混むことが毎日の生活で分かっていたので生活科の勉強なんてできる環境にない。そう考えると講義に出ても、さほど変わらない。僕は教室に向かい、いつもの席についた。
 講義がすべて終わり、夕方になると僕はケイの自習室誘いを断って、早めに帰宅した。何か後ろめたいような気分でなんとも後味の悪い一日だったと電車の中で自分を恥じた。こんなことだったらはじめから家で勉強していれば……。いや、そんなことをいっても始まらない。僕はスイッチの切り替えが早くなっていた。来るべき日は明日。決戦の日は明日。運命の日は明日。明日は僕の人生が最も大きく左右に揺れる日だ。
 いざ勝負!バイト休みの連絡。そして早めに就寝!

 決戦の日。僕の鼓動は午前五時の起床とともに高鳴っていた。早めの朝食を済ませた後、ニュースをしばし見て、神棚に手を合わせた。
おかしくて笑っちゃうんだけど、実は僕、この日を迎えることが、とっても怖かったんだと思う。こういった状況に置かれれば、人はきっと元首的、神秘的なものに回帰するんだろう。それは僕にとっての宗教だった。このときだけは神の存在を認めなければ気が狂いそうで仕方がなかったんだ。プレッシャーに圧殺されそうなノミの心臓を心底恨んだ。     
いつもの通り駅に向かい、電車に乗りこむ。今日の僕はいつもと違い、ウォークマンすら雑音と感じた。よほど集中しているか、気が散ってしょうがないかのどちらかの心境を僕は客観的に分析できる思考力はもはやない。僕は僕の立場でしか、ものを考えられなくなっていた。
予備校があるいつもの駅で降り、バスに乗り換えた。少し時間がかかるらしい。必死で気を抑える僕。少し落ち着こうと窓の外に目をやる。しばし風景でも眺めようかと決め込んだ。

実はわざわざ、県をまたがなくても、大検の受検はできた。しかし、僕が同県で受験することを拒否したのである。
もはや、あの県で何かをすることは僕にとって嫌悪感と拒絶感の賜物以外の何物でもなかった。受験場はわざわざ遠いこの場所を選択できたということで、本当にホッとしたものである。
「望郷の念」という言葉があるが、僕はきっと死ぬまでそれを体験することはないだろう。それほど田舎であるあの街を憎んだ。そしてそこに住んでいる人間も。
「いつか必ず出て行ってやる。」
この言葉を何度口走ったことか。それはその場の勢いで発した言葉ではなく、まぎれもない裸の僕の本心だったんだ。誰も信じちゃくれなかったけどさ。

とにかく受験場に着いたら、多くの受験者がごった煮の中、僕は受験教室を確認し、その教室に入室して試験開始の時刻を待っていた。そのときには高揚感や焦り、不安感のようなものは自然と消え失せ、単体として、ただの物体がそこにあっただけだった。
それからどのくらいの時間が経っただろう。三時間から四時間ぐらいだったかもしれないし、はたまた一分少々しか経ってなかったかもしれない。とにかく帰りのバスを待つ僕がそこにいた。

どうやら試験が終わったようだ。帰りのバスの中で回想にふけながら、僕にはどうも試験中の自分自身が他人のように感じていた。あの試験場に僕は何の感慨も感想もない。ただ、時間だけが淡々と刻まれていった、そんなひと時だった。
大検は全国の受験者の平均点が、そのまま合格ラインとなる。それゆえ、過去のデータはあるものの僕が今、自己採点したところで一〇〇パーセント合格ということはできないし、確信が持てないゆえに、安心感も得ることはできないであろう。僕のこのどうしようもない魚の骨が取れるのは、九月末から一〇月上旬である。どうしようもないこの事実。僕のこれから数ヶ月の生活は大検に合格しているという仮定の上で多くのことが進んでいくことになる。僕はそんな不確定の上で何か集中できる環境を作れるだろうか。おそらく無理である。どうにもならない不安感はいつでも僕について回るだろう。
未来の不確定さを好んだ僕は、現状の不確定さをとても嫌っていた。とても不思議に聞こえるが、僕は今の安心感をとても大切にしたかったし、それを欲していたんだ。明確な将来の目標なく暮らしている僕は今、明確な「大学生になる。」といった近未来的目標のため、必死にもがいていたのかもしれない。モラトリアムを先延ばししたかった僕は、決して歩みを止めたかったわけじゃない。
バスは終点の駅前に到着した。一仕事終えた僕は地下の喫茶店に入り、コーヒーとトーストをオーダーし、試験の成功を願いつつ、受験票を大切にファイルに入れた。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》