戦略的モラトリアム【大学生活編③】
5月初旬 鬱陶しい花粉症と蒸し暑さの足音。
葉桜からの木漏れ日が、ギラギラした大学生活をレジャー気分に変える。カリキュラムが始まった。前期試験が7月から始まる。このことを念頭に入れ毎日を綱渡りのように生きるか、いや、もしくは部活やサークル、はたまた合コンやら飲み会やら、そんな世俗にかぶれた大学生の日常に埋もれるか。
集団生活なんて本当に久しぶり。あの鬱陶しかった高校生活や中学生活のように周りの空気に流されるような、いや、まるで自分に医師がないの様な木の葉が湖を猶予うような、そんな学校生活を送るのはもうたくさんだった。
今はとにかく毎日の講義に遅れず出席し、講義の内容を100%理解すること、あわよくば、その研究内容に興味を持つこと。主体的に何事にも取り組むことが自分の止まった時計を再び進めることなのだ。しかし、それは孤独になる事を意味する。
「付き合いが悪い」「よくわからない人」そう思われるのは必然だし、何より暗中模索の大学生活がより暗いものにならないのだろうか。
そんな不安を埋めるように時間割を埋め尽くした……。履修制限めいっぱいまで授業を取り、それを全うすることが出来れば、自分の中で何か変わるかもしれない。
不思議な気分だ。モラトリアムを楽しむつもりが、そのモラトリアムをもて余すように踊らされている。
目的もなく流れに身を任せて猶予う一葉船……。
自分が最も嫌う「周りに流されること」それこそがモラトリアムではないのだろうか。
少しずつ、しかし確実に
自分の中で何かが変わり始めている。
大学生活で楽しむはずだったモラトリアムは、実はモラトリアムではなかった??
あの高校生活と人目を気にして活きる様な「世間体」に囚われていた田舎の実家生活こそがモラトリアムだったのではないだろうか。
自分の自由な意思に従うことは決して「モラトリアム」ではない。自分の気持ちに従って生きることは自分に正直に生きること。
それは周りの状況でひらりと変わる一葉船ではない。
自分は今、まさに自分の気持ちにまっすぐに生きようとしていた。今、初めて生まれ落ちたような気持ちだ。
自分はリベラルアーツでこの学部で吸収できるものをすべて吸収してやる。自分の意欲がリフレクション。
その学部のあらゆる学問に反射していた。今まで知らなかったことに好奇の目を向け始めた怠け者は決して邪な気持ちで大学と対峙しているわけではなかった。
孤独は覚悟している。今まで触れたことのない本を読み漁った。この大学という施設をありとあらゆるところまで活用してやる。今まで埋もれていた自分が生き生きと躍動していることが日々感じられた。
高校気分が抜けない、浮足立ったひととなり。
気にせず、自分は生まれ変わった人となり。
ナリは気にせず、大学生となり、となり気にせず没頭しせり。
そして、そこは少しずつ仲間が集まり始めた。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》