震災クロニクル3/18~20(32)
同僚は次の日からこのホテルにチェックインはしなかった。完璧に一人になった。しばらく自分は息をひそめるようにこの塒に隠れていた。世の中の喧騒から遠ざかるように。数日間、宇田川さんをはじめとするカプセルホテルに暮らす人々との交流を深めることに専念をした。
次の日も同じように朝夕と歓談をしながら、テレビを食い入るように見ていた。放射線量はこのころ全国ニュースで放送されるようになっていた。
「高い。とても帰れない」
「そうだな。まだ帰ってはだめだぞ」
宇田川さんは自分の気持ちがまるで読めるかのように自分を諫めた。
朝になると、もう限界だった。目は赤らみ、クシャミが止まらない。こんな時に……
花粉症の症状だ。もっと早く薬をもらいに行けばよかった。震災以降、病院に行く暇がなかった。今日は休日だし、診療はしていないだろう……。
困った。ネットで調べていくと休日診療をしている診療所がある。
よし!
少し歌舞伎町から歩くが、仕方がない。地図を見ながら、そこに向かった。30分くらい歩いただろうか。片手にポケットティッシュを持ちながら、診療所へ向かった。何とかたどり着くと、年老いた医者がぽつりと座っていた。
「どうされましたか」
不愛想に話しかけられて、少し気まずかったが、
「花粉症がひどくて……」
「そうですか。お薬だしておきますね。保険証持っていますか」
「あぁ、はい」
財布から保険証を出すと、そこに住所が記載されていた。それを見て医者が、
「あぁ、福島の方ですか。避難されてきたのですか」
「そうです。数日前にここに来ました」
正直に言うしかなかった。『まさか放射線量測ってこい』とは言われないだろう。しかし、医師は次のように言った。
「何人で避難してきたの?あまりここで今日診療やってること教えないでね。たくさん来ると大変だから」
信じられない言葉だったが、あきらめた。もはや福島はどこに行っても厄介者扱いをされることを覚悟していた。
「分かりました」
そう言うと、診断書をもらい、近くの薬局で薬をもらった。薬剤師の女性から
「頑張ってね」
と優しい声をかけられると、
「ありがとうございます」
とお礼を言って、すぐに帰路についた。予期していたことではあるけれど、冷たくされるのと優しくされるのをほぼ同時期に受けると、どの対応も同情のように感じて、ひどく気分が悪かった。
カプセルホテルに戻っても、まだチェックインできる時間ではない。点鼻薬と飲み薬を使って、厄介な症状は治まるだろう。しかしこの厄介な状態はまだ暫く続くのかと思うと本当に気が滅入る。
とうとう最後の手段を使う時が来たのも知れない。
「電話するか……」
東京に住む親戚の家の電話番号
本当は連絡も取りたくないし、顔も見たくない。しかしお金がいつまでも続くわけないし、収入も見込めない。こうなれば支出の方をできるだけ止めるしかない。
「……」
電話をした。
「もしもし……」
連絡すると、心配そうにおばさんが出た。
事情を話すと「来なよ」と気軽に言ってくれた。ただ素直にそのときは嬉しかった。あくまで「そのときは」だが。
田町で中華料理屋を経営していて、自分はそこの手伝いをすることになるだろう。まぁ仕方ない。そこで手伝うことで、しばらく避難生活をするしかない。観念して翌日そこに向かうことに決めた。
カプセルホテルにチェックインすると、そのことを宇田川さんをはじめとするお世話になった方々にそのことを伝えた。数えきれないほどの励ましの言葉を戴き、翌日自分はその塒を朝早く出て行った。なぜか震災後、人の優しさに触れる事が出来た場所がここだったのかもしれない。福島を差別なく温かく迎えてくれた人々に感謝。
小さくホテルに礼をして、僕は電車に乗った。
過ぎる新宿の街並みをいつまでも眺めていた。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》