戦略的モラトリアム⑳
とある日のこと。専門学校の帰り道。僕は例の駅前の予備校に吸い込まれるかのようにふらっと入っていった。どういった感情からそのような行動に出たのか。自分でもうまく説明できないんだけど、掃除機に吸い上げられるごみのごとく、僕は無機質な蛍光灯群に吸い込まれていった。まるでそれを望んでいたかのごとく……。
中ではサテライト講義のエキシビジョンが映し出されカウンターで多くの学生が何かの手続きをしている。
ちょっと悔しかった。僕から見たこいつらは、結構、眩しすぎる光沢があったからだ。まるで新鮮な息をしてるって感じだった。不規則な呼吸、一歩ごとに歩幅の違う歩み。どれも生きてるって感じだ。今の僕とは比べ物にならないほど、人間をしてる……。
そのとき、かつて大きく振れた針を僕はもう一度だけ、振りなおしてみたくなったんだ。それは過去の自分の懺悔といった高尚なものではない。まるで何もなかったかのような初体験の気持ちで大学受験をしてみたくなったんだと思う。過去の自分の所業は棚上げにして……。お世辞にも全うな動機ではないけど、もはやそんなモラルの通用する社会性は僕には通用しなかった。というか、そんな過去からは一〇〇〇マイル以上も逃げ出してきていたんだ。悪びれもなく、ふと壁を見ると、全国模試の案内がでかでかと貼ってあった。どうやらその受付で込み合ってるらしい。
ひと時の静寂……。僕の胸を襲う刺すような激痛。
受付に向かった僕は列の最後尾に並んでいた。そのとき、僕がなぜそんな行動をとったのか、言葉で説明しきれないところがたくさんあって、どうにも表現しようがない。
ただ、子供の頃、遠足した場所に大人になってから、車で行って懐かしむってのがあるだろ?それに近い感じはあったよ。だって、列に並んでる僕はきっと活き活きとした顔に戻ってたと思うからさ。
「はい、何でしょう?」
と受付の女性の声。
「あの、模試受けたいんですけど。」
「本科生ですか?」
「いえ、外部です。」
「では、この書類に記入してください。」
……。
「はい、どうも。」
何が何だか分からないまま、僕は受験票を受け取った……。
無言。
今更、大学が何だっていうんだ。僕は今の暮らしには満足しているし、田舎を離れて、自分の道を歩いてるつもりさ。なら、どうして……。
その日は寮に帰り、さっさと寝てしまった。
……。
あの日と同じ夢……。
「はっ。」
まだ朝の六時だっていうのに、不覚にも目覚めてしまった。僕は昨日見た夢の意味をベッドでしばらく考えてみた。
三〇分くらい過ぎただろうか、大分、目が覚めてきた。足の冷たさを感じる。昨日の受験票を取り出し、じっと見つめる。機械のインクのシミだろうか、紙の端が黒く煤けている。受験票を棚に置くと、僕は音楽でも聴こうと、CDを取り出す。ディスクをプレーヤーにセットすると、とっさに一曲目からかけた。朝には不似合いな重い曲だ。
どてっぱらにズシリと響く。なんてひどい曲だ。僕はアルバムジャケットを取り、表紙の模様を眺めた。曲とは正反対のカラフルでソフトな蛍光色。
……。
「色……。クレヨンの色……。真っ白なキャンバス……。」
静かな閃きだったかもしれない。そのときの僕は何かを悟ったにしては妙に落ち着いていた。
僕にはクレヨンの色が一色しかなかった。それがあの予備校に行くことで三色ぐらいに増えたのかもしれない。そして、奴らに会ったことでもっと増えていった。今、僕の手元に何色のクレヨンがあるんだろう?そしてこれから何本増えていくんだろう?
僕は自分が大学に惹かれた理由をずっと考えていた。それは曖昧なところに惹かれたのかもしれない。確かにそうだ。でも、それは言い方を変えれば、不特定多数の人との出会い。どんな奴が集まるとも知れないところでの出会い。今まで想像が及ばないほど未知の世界での出会いだった。
しかし一方で未来の恐怖におののいた自分がいた。確定的な未来を何よりも恐れ、逃避行を続けてきた。
人間関係に悩んでいた僕は誰よりも人間関係を欲していた。僕はいろんな人と出会って生きたいし、いろんなことを経験したいんだ。そうやって自分の人生を塗りつぶしていけたら、なんて素敵なことなんだろう。それには恐怖ってやつを打ち砕く勇気ってやつが必要だけどね。
本当は今、自分が何をしたくて、将来どうしたいかなんて正確には言えないけど、僕はもっと多くの人と出会わなくっちゃならないし、多くの環境に身を投じなければならないはず。そんな使命感がうっすら僕を覆った。モラトリアムってきっとそういうことさ。
僕はそれをこれからの人生のために戦略的に使いこなしてやる!
完全にふっ切れた。僕は今までやってた接客業のバイトを辞め、もっと歩合のいい、警備員のバイトをやることにした。それで予備校の模試は一年間受けられて、しかも入試の受験料は払えるだけの貯金はできるだろう。
都会に出て、モラトリアムを満喫するために部屋に鍵を掛け暮らす。それじゃあまりにも閉鎖的さ。僕にはもっと新しい地に出て行かなくちゃならない理由があるんだ。振り子が止まるそのときまでね。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》