震災クロニクル12/31(55)
年の瀬が押し迫り、激動の2011年が終わりを迎える。街中を行き交う人も疎ら。仮設住宅には煌々と明かりが灯っている。除染等復興関連会社の仮設宿舎はポツリ、ポツリと明かりが灯る。きっと帰る場所がない人たちなんだろうと、ほんの少しだけ哀れみの気持ちが湧き、自分の中が楽になった。刺々しかった地元民と作業員の間にもほんの少しだけ理解の心が芽生えたのだろうか?この時期になって喧嘩等トラブルの話はなりをひそめた。
結局のところ、先行きが不透明なままなのは自分達地元民だけではなく、出稼ぎで来ている彼らもおなじなのだ。いつ切られるとも分からない仕事。高線量を浴びて、線量管理バッチの警報がなれば、累積線量オーバーで今の仕事は続けられない。一定期間の休みが言い渡される。それも数ヵ月から半時の間だ。それはそれは長い間なんの保証もない生活が続く。中には線量計を鉛でぐるぐる巻きにし、作業に臨む作業員もいた。もちろん、それはニュースになっていたのだが。
原発構内で働いていれば当然高線量を浴びる。そのなかでの作業は苛烈を極めているのだろう。
政治上、原発は冷温停止状態のはずだが……なぜかニュースはいつも原発の状態を日夜伝えている。どんどん放送枠は小さくなり、人々の頭の中からは原発事故なんて遠い過去の話になりつつあるのだろうが、福島県では今も続いている災難。情報はどんどん人々の頭からアップデートされ、圧縮され、そして、デリートされていく。東京ではもはや福島の原発事故なんて遠い異国の地の昔の出来事のように思っているところだろう。
福島県が日本から解離しつつあるのか?操作された情報が生んだ地域間の隔絶とても言うべきだろうか。僕らの街を含めたこの県では未だに東日本大震災が継続していた。水道の水はもはや洗濯にしか使わない。飲み水はミネラルウォーターで済ませ、蛇口を捻る度に透明の水が流れるが、その成分まで僕らは見通すことができない。目に見えない不安がそこらじゅうにあった。
確信のない不安は杞憂のはずだが、至るところにある黒いトンバッグの中には汚染土や瓦礫がぎっしりとつまっている。その光景を見ると、確信のない漠然とした不安が、しっかりと心の中に根をはったのである。
このトンバッグは「中間貯蔵施設」に送られる。もちろん「中間」なので、最終処分施設ではない。数年以内にここからまた移動する。次の行き先は決まっていない。
そのうち「中間」が「最終」に変わるだけで、場所は変わらないのでは?
誰もがそんな予感をしている。おそらくそれは確信にも似た強い予感だ。きっと当たる。
それほどまでにこの国のやることは予想できてしまう。原発事故の責任はいったい誰に?
それもきっと誰もとらないだろう。責任者がいない原子力発電所を福島県は受け入れてしまったのだ。今になってそれがわかった。やり場のない怒りが乱反射していろんなものにぶつかり合い、それがトラブルを生む。作業員にとっては割りの良い仕事にありついたのかもしれないが、その事が地元民との間にいさかいを引き起こした。
地元民から作業員を見ると
「原発事故で金儲けしている奴ら」
作業員から地元民を見ると
「原発事故で国から税金で保護されている奴ら」
お互いが羨望を含んだ軽蔑の視線で見つめあっている。
しかし、それは作業員と地元民に限ったことではない。原発からの距離で大きく賠償内容が異なるため、30キロ圏内と圏外の住民同士も蟠りを抱えていた。それはやはりお金の面でのことがほとんどだった。
「同じ市内なのに何でオメーらは金が貰えてんだよ」
分断は始まったのである。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》