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駿と隼雄に神頼み(一旦CM💚)

これは神隠しだったのだろうか?

私は完全にパラレルに迷い込んでいるようだ。

時間空間が歪んだその狭間で、高らかに響くの天使の囁きが、さざ波のように私を包んでいた。

そう、あの時からずっと・・・。


風よ~🍃胸張って、飛んでいかせて🐦

今年の夏、地元に帰った時、それは音もたてずに舞い降りた。

私の車の上に、一羽の青サギが、すでに落ち着いた佇まいで静かに降り立っていらっしゃる。

これは間違いない。あのお方だ。

宮崎駿監督、怒涛のカオス作品『君たちはどう生きるか』

サギ男さまだ!


私に南野なんの、何の指令を下しにやって来たのか?

互いの間に少しだけ、緊張が走る。

いや、大丈夫だ。

これは意味のある偶然だ。必ず何らかのメッセージがあって、ここにやってきたのだろう。

少しずつ彼と距離を縮め、波動を、そして周波数を合わせる。

そして静かに彼に問いかけた。

『なんのはなしですか?』


その瞬間、彼の横顔にうっすらと、縦に伸びるひびのような筋が入り、その顔は一層凛々しく、眼光はより厳しく光った。

私がさらに歩みを進めようとしたその瞬間、隣にいた娘が"ダダダ""駄々陀"と駆け寄り、彼を挑発した。


『ぎゃぎゃギョウォ~』って何?

『ぎゃぎゃギョウォ~』


嗚呼、行ってしまわれた。

耳をつんざような、濁点のついた悪しき鳴き声だけを残して…。


鳥よ、鳥よ、鳥たちよ。

私の人生において、鳥の"サイン"は、もはやステイタスになっている。

イソヒヨドリのアオ君とイソ子夫婦も、毎朝、家の庭にやってきて、とても美しい歌声を聴かせてくれている。常に私の周りにはたくさんの鳥がいる。

常に見守られてると感じる。

夏に京都に行った時も、見えてなかったと思うけどいたんだよ。

お分かりだろうか?


ここです。確かにいますね。


川の中腹あたりに、白いポツンとした鳥の姿が確認できます。

確実に彼、サギ男です。

今朝も家の側にある川辺で、ふっくらとした羽根を静かに閉じ、川面をじっと眺める彼の姿がありました。

何故、今、サギ男なのか?

宮崎駿監督が、『君たちはどう生きるか』で描いた「サギ」は、鎌倉時代の「吾妻鏡」という歴史書に登場する妖怪の「青鷺火」だったようで、どちらかというと、「災い」を招くものの象徴とされていたようだ。(諸説あり)

しかし、今、私の前に姿を現すサギ男のメッセージは、そのような不吉なものではなく、どうもこの混沌とした次元を超えてゆくための「イニシエーションの導き手」と思えてならないのです。

尊敬する河合隼雄氏は、著書の中でこうおっしゃっています。

イニシエーションは、未開社会において、ある個人がひとつの段階から他の段階へ移行する時、それを可能にするための儀式である。
(中略)
イニシエーションの体験によって、ある個人はまったくの「別人」に成ると考えられるのである。

河合隼雄著 生と死の接点より









一番わかりやすいのは、少年や少女から大人になる儀式、つまり「成人式」がその最たる通過儀礼でしょう。

昨日まで子供で、今日から大人。なんか笑っちゃうな。この儀式。

それでも、今日からは大人な「わたし」で生きていくんだと、子どもな「わたし」に手を振りながら、未開の地へ進む。同じ「わたし」なのに、今日から別人。そこにどんな意味が込められているのか?

考え方、在り方。私が示す意図?

そして今、人生の後半を迎え、何のイニシエーションに差し掛かっているというのだろうか?

私は、私は…。

私が私らしく生きるために通過しなければならない儀式。

何だと思いますか???

未だ混沌とした中にいる。答えなんて見つかるわけない。

だって分からないのだから。

分からないまま、恥ずかしいまま書いています。

ただ、サギ男がこれだけは伝えたいのだろうと思うことがひとつだけあります。それは…

『ぎゃぎゃギョウォ~』

君が生きたいように生きなさいな


それは、まぎれもなく、たしかなこと。。。


駿監督と、隼雄先生に思いを飛ばしながら、私は神在祭のために、全国各地から出雲に集まっていただいている、八百万の神々に静かに手を合わせ、この混沌としたパラレルを抜け出せる、その『扉』へと導いてほしいと、必死の想いで、頼みのくにびき綱を引き込んでいるのでありました。


これでいいのだ!!
まだ皆さんのところに読みに行けておらずすみません。
もう少しだけゆっくり行かせて頂きます(。-人-。) 

ナウシカ ᵃʳⁱᵍᵃᵗᵒ~(˘͈ᵕ ˘͈♡)ஐ:*アイヲコメテ♡



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