恋愛小説家
朝、カーテンの閉まった部屋で私はただ指を動かしつづけ、コンピュータに文字を打ち込んでいる。
あなたのあまい囁きが心に響きわたる。私を「あいしてる」と言うあなたの唇の動きを見つめながら、私も同じように唇を動かして「あいしてる」と囁き返した。ベッドで抱き合う私たち二人を朝の優しい陽射しが包んだ。
私は泣きながらこの情景を言葉に落とし込む。
穏やかで緩やかで愛あふれる文章を生み出す。
でも私のこの涙は愛があふれて流れている涙ではない。つらくて苦しくて、心をグサグサとナイフで突き刺しながら、自分の生み出す言葉にどこまでも傷つけられながら、それでも私は甘い甘い文章を書き続ける。
「あ、小松さんですよね? 小松ゆかりさんですか?」
信号待ちをしているとき、大学生くらいの女の子が私を覗き込むように声をかけた。私は少し口角をあげて優しく頷いた。
「やっぱり、小松さん。テレビでお見かけして。あ、どうしよう。うれしいです。小松さんの小説のファンなんです」
そういってわっとテンションをあげてキラキラした目で私に話しかけてくれた。かわいい子だな。
「いつも小松さんの小説にドキドキしてます。愛する恋人とのシーンは本当に素敵です。握手してもらっていいですか? あ、サインとかももしお願いできるなら。あ、私、持ってるんです。今も小松さんの小説を。彼もね、小松さんの小説のファンなんで、一緒にいつもこんな素敵な恋をしようよってね、言ってるんですけど」
そんなふうに興奮気味に話し続けながら彼女はカバンをガサゴソと探った。カバンの中に目をやったり慌てて私を見上げたりと彼女は忙しく動く。大丈夫。私は逃げないから。ゆっくり私の素敵な恋の本を探して。
やっと取り出した単行本とボールペンを私に差し出して、うれしそうにニッコリと笑った。本当にこの子、かわいい。
私は本とペンを受け取って、慣れた手つきで「小松ゆかり」と背表紙にサインした。ハートマーク入りのこのサインをもう何百回書いてきたのか覚えていない。私が書いた恋愛小説が大きな賞をとって「期待の新人」とか「驚くべき才能」とかそういった言葉を滝のように浴びたのは3年前のこと。
私は処女作の長編を含めすでに9本の小説を出版している。どの本も飛ぶように売れると編集さんがいつも興奮気味に教えてくれる。私を見ながら興奮した目を向ける人間をもうたくさん見すぎたから、興奮する人間にはすっかり慣れてしまった。
「ありがとうございます。これからも読んでくださいね。いい作品を作れるように頑張りますね」
とすっかり体に染み込んでしまった言葉を私は機械的に繰り返し、握手して彼女に微笑んだ。
明るく手を振ってお辞儀を繰り返す彼女を見送ったときには信号はまた赤になっていた。彼女はこの信号を渡りたかったわけじゃなかったんだ。別の方に去っていった彼女をぼんやり眺めながら、写真も撮らせてくださいと言われなくてよかったとホッとした。なんだか疲れるから。
3年前のあの頃には私には恋人がいて、とても満たされた日々を送っていた。そのときに自然に浮かんできた私の中の愛情からイメージを膨らませて物語を作り文学界の大きなコンクールに応募したら驚いたことに最優秀賞を受賞し、その後トントン拍子に私は小説家としての地位を築いていった。3つほど続けざまに別の賞も受賞した。
でもこのときの彼は今から1年前に私のそばからいなくなってしまった。
私は彼をとても愛していたから、つらくて苦しくて死んでしまいたくなった。どうしたら彼を失わなくてすんだんだろうと数え切れないほど考えたけど何もわからなくて、ただ彼はもういないという事実だけに打ちのめされた。
それでも私は恋愛小説を書き続けた。彼を想像して妄想して、彼ならどう言うのかな、彼ならどう抱きしめるかな、そんなことを毎日毎日考えながら文章を書き続けた。
毎夜、私は彼が去っていく後ろ姿をじっと見つめる夢を見て涙を流しながら朝、目を覚ます。彼がいなくなったあの日からそれはずっと変わらない。
私は恋愛小説を書くことで彼の細かな表情や動きをすべて思い出している。だから彼を忘れられない。私の恋愛小説の源は彼そのものだからだ。
でもたぶん、もう心はどうしようもなく消耗している。
彼を思い出し続けることは、自分の心を傷つけ続けることだ。だけど彼を思い出し続けることで私は生きている。
もう耐えられないと心が叫んでいるけど、それでも私はこうして耐えている。
彼が「カーテンを開けよう」って微笑んで私に言った。頷きながら私がベッドから立ち上がってカーテンを開けると、もっと強い陽射しが部屋中にあふれた。窓の外を眺める私を彼が後ろからそっと抱きしめる。彼の温かい体を感じながら目を閉じた。まぶたを通して入る陽の光と彼の温かさに私は包み込まれて涙が出るほど幸せだった。
私は恋愛小説家だから、こうしてたくさんの愛あふれる文章をこれからも書き続ける。
テーブルの上に並ぶ大量の薬を手にとる。キッチンでマグカップに水を注ぎ、ゴクリと飲み込む。彼とお揃いのカップはとても手に馴染む。
3日後に締め切りが迫っている。
いつもすごく愛してくれてありがとう。私は本当に幸せだよ。
2118文字
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お気持ち嬉しいです。ありがとうございます✨