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mimisuka
№17 新学期、文房具を新しくそろえてくる子が羨ましかった
その人は恵まれていたというより私が持っていないものを持っていただけかもしれないけれど、それをどうやって手に入れたかをもっとよく考えてみたら良かったと思う時がある。
物心両面にわたり他人の持ち物が気になるとき私は、逆にその人が持っていないものを持っていると考えて一人納得することが多かったがその考え方(気持ちの納め方)は頓服のようなもので、長い時間生きていく間には結局つじつまが合わないのだと知った。
幸せの土台として何が必要か。
満たされるとはどういうことか。
自分が本当に必要とする何かを、親や環境、運によって容易く大量に与えられる人にうらやましさを感じていた。
そして年や経験を重ねて、より重要なのはそれらを自ら手に入れること。手に入れられる自分になることだと少しずつ理解してきたように思える。
与えられてうれしいのは思いがけないもの。
ありがちだが雨上がりの虹のような。
でも、ねだったり、脅したり、なだめたりすかしたり、恩を着せたり、期待させたりして相手に与えさせ、疑わしい喜びで、自分を嬉しがらせる日々をやめられない。