「頭の悪い人」という言葉にカチン!

ある論者が、議論の中で「頭の悪い人」という言葉をよく使う。
その度に、僕はカチンとくる。
僕が、実際にそういう議論する場面で、そう言われたらどう対応するかその対策を考えてみた。
トーマス・ジェファーソンという第3代アメリカの大統領は、そういうときに、口を開く前に、数を数えるんだと10数えるという。ひどい怒りを感じたときは、100までと。
なるほど。
それを一部採用し、
議論本番、僕が「頭が悪い人」と言われ、印象操作されたとして、
僕はカチンとくる。
そして、僕は数を数える。
数えているから、当然、自分は沈黙する。
論破されたの?みたいな微妙な空気になると思うので、
「?』
「僕は、ひどい怒りの感情を感じると、トーマス・ジェファーソンの故事ならって、数を心の中で10数えます。ひどい怒りの時は100まで数えます」と。

だめか。
口先で対応するのではなく、言語的行動で示すみたいな。

そういうことならば、手を叩いて、「ハイハイ」というのもありなのかとも思います。
で、当然相手に対して失礼だろうという空気になると思うから
「?」
「こころの自衛のために行う「儀式」のようなものです」と
だめか。


またその論者は、経済議論の中で、小学校で習うことを基準に、論敵を「頭の悪い人」と言っていた。
小学生の時に学校でならうことは、大人になってからくつがえるって割とあるあるな気がします。
歴史年表も当時と変わったこともあると聞く。
自分が小学生の頃には、天皇陛下がどういう存在か、どういう「概念」かも教わらない。
学校を基準にするだけでは、「頭の悪い人」というのは、成り立ちにくいと思うんよね。
また学校以外で勉強できることは、山のようにあると思うし。

で、その論者は、「頭の悪い人」と比べて、自分は「頭のいい人」と印象を操作するのがとてもお上手で。
ブランディングがとても上手いと言われている。

その論者の自分が「頭のいい人」という核心を察するに、それは自分が論理学的に考えられるまたは、話せる人であるということなのではないかと思う。

しかし、実は人間の「こころの理解」を目的とする心理学では、人間の「推理」などの考察したり考えることは、論理学通り進まないのではないかという意見もある。
だから、その認知の過程を研究して、一見「頭の悪い人」と思われる事象を、心理学的に解明し、それを社会で活かそうと考えた方が、より実りある議論が展開できるのではないかと思います。
そっちの方がより福祉的だし、本来のコミュニケーションと言えるのかもしれない。
そいう意味で、「頭の悪い人」という言い方は、ある意味思考停止なんじゃないかと思っています。
ありがとうございました。

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