レトロな中学時代
「痴漢」とわたし
中学一年の時、初めて痴漢なるものを知った。小学生の頃から、わたしはずっとバス通学だったけれど、さすがに小学生に痴漢するやつは、まだその当時はいなかった。
ところが、中学生になって制服を着るようになると、とたんに、そいつらは現れ始めた。わたしの学校の制服は可愛らしかったので、制服に反応してるのかもしれない、とわたしは思った。
ベストとスカートが、ウエストのところのボタンで留めてあり、ワンピースのように見える。白いブラウスは丸襟で、そこには幅広の、ワインカラーのリボンがゆったりと結ばれている。たいていの子は、着てるだけで可愛らしく見えた。
バスに乗ると、痴漢ぽいやつがいるかどうか、まずチェックする。卑屈な顔つきをしているやつは怪しいので、そんな顔つきを見つけたら、そばに行かないようにした。
それでも、全く快活そうにしているやつが実は痴漢だったり、卑屈ぽいのに、その卑屈が、痴漢に遭っているわたしを守ってくれたり、と、いろいろな場合があって、見分けるのは難しかった。
わたしは、ほぼ毎日、バスの中で痴漢と戦っていた。
手を握ってくるやつ、お尻を触ってくるやつ、自分の体を密着させてくるやつ、と、いろんなパターンがあった。
ーーうんざりだ!
ある日、父親に相談してみたら、父親からは、
「お前はコケティッシュだからな。」
と、にべもなく言われた。
「コケティッシュ」って何だかわからないけど、どうもわたしがいけないらしかった。
悔しいので、「痴漢になんか負けるもんか!」と思い、やっつける方法をいろいろ考えた。
とりあえず、手を握って来たやつには、足の弁慶の泣きどころの辺りを蹴飛ばしてやることにした。これは結構効き目があった。大抵のやつは、びっくりして、手を離し、そそくさとバスの奥のほうに消えて行った。
お尻を触って来たやつには、その手の甲を、思いきりつねってやった。そいつも、びっくりして、手を引っ込めた。
からだを密着させてくるやつには、学生カバンを、そいつのからだとわたしのからだの間に入れ込んで、テコの原理で、突き飛ばした。
そんなふうにして、わたしは、結構な確率で、痴漢撃退に成功していた。「卑屈なやつなんかに負けない!」とばかりに頑張っていた。
ところが、大抵の痴漢には負けない方法を身につけた頃に、その事件は起こった。
その朝、わたしは、いつものように、満員のバスに乗り込んでいた。すると、わたしの横に立った男が、わたしのウエストのあたりに手を伸ばして来たのだ。
「?」
お尻でもなく、手でもなく、その男が手を伸ばして来たのは、わたしのウエストである。何をしたいのか、見当もつかない。
すると、その男は、指先を器用に動かして、ものすごい速さで、わたしのウエストにある、スカートとベストを繋いでいるボタンを、全部外したのだ!
「は?何?」
と、わたしが思う間もなく、ボタンを全部外されてしまったわたしのスカートは、落ちるしかない。
まさに「新種の痴漢」である。
ただ、バスの中は混んでいるので、スカートはすっかりは落ちなかったし、わたしもあわてて押さえたので、スカートは途中でちゃんと止まった。
そいつは、きっと、ものすごく研究したんだろう。どうしたら、わたしに恥ずかしいおもいをさせることが出来るのか、を。
バスは毎日同じ時間だし、そいつは、きっと、毎日、わたしを見ていたんだと思う。
ーー信じられないほど悪いやつだ。
そう思ったら、ものすごく気持ち悪くなった。
ーーもう、無理!
それっきり、わたしは、満員のバスに乗ることを止めた。わたしは、早朝の、客の少ない、まだ、座っていけるバスに乗ることにしたのだ。
もう、痴漢に会うことも無くなったし、誰も登校していない、まだ静かな学校に行く喜びも知った。
だから、「信じられないほど悪い痴漢」は、わたしに、新しい生活をもたらしてくれた、と言えるかもしれない。
「キリンレモン」と早朝の学校
混んだバスの「痴漢」に懲り懲りしたわたしは、まだ誰も登校していない、朝の教室に、一番乗りするようになった。
母には早起きさせて申し訳なかったけれど、わたしは、お弁当を作ってもらって、たいてい七時少し前の空いたバスに乗って学校に出かけた。
誰もいない教室は、空気がピーンと張っていて、気持ちが良い。中に入るとまず、わたしは、教室の全部の窓を開け放つ。それから、すみっこに並んでいるロッカーに行く。わたしのロッカーの中には、何故か一本の「キリンレモン」が入っていて、それが、毎朝、わたしを安心させてくれるのだ。
その頃のわたしは、「呑気症」という症状に悩んでいた。呑まなくてもいい空気を呑み込んでしまって、胃を満タンにしてしまい、それが吐けなくて苦しむ。自律神経失調症の一種らしく、緊張が続くと起きる症状だとお医者さんからは言われていた。
その症状は、炭酸を飲んで「げっぷ」をすると治る。そのことを担任の先生に話したら、理解ある先生は、
「そんなら、いつでも飲めるように、好きな炭酸を一本、ロッカーに入れておいていいよ。」と、言ってくれたのだ。
不思議なことに、わたしが好きな「キリンレモン」をロッカーに入れて、毎朝それを「見る」ことにしたら、それっきり、呑気症は収まった。不安が解消されたのかもしれない。
そんなわけで、わたしは、毎朝、教室に入るなり、ロッカーに行って、「キリンレモン」を「見る」のだ。でも、まだ、みんないないので、わたしのロッカーに「キリンレモン」があることは、誰も知らない。
わたしは、そんな秘密にも、実はワクワクしていた。だから、毎朝「キリンレモン」を見ることは、わたしの秘密の楽しみでもあったのだ。
誰もいない教室での儀式が済むと、次にわたしは、まだ司書の先生さえ出勤していない図書室に行く。
図書室には窓辺があって、そこに、鉢植えのお花が飾ってある。その横に、ブックエンドがあって、司書さんがおすすめの本が並べてある。
わたしは、その本たちを眺めて、気になった本は手に取ってみたりした。それでも、まだ、教室にみんなが来るまでは二十分くらいあるから、たいていわたしは、その頃はまっていた江戸川乱歩とかアガサ・クリスティとかを読んで時間を潰した。
早朝のその時間は、わたしにとって、一日のうちで一番ゆったりした、自由な時間だった。
大きく深呼吸して、朝日のなか、わたしは教室に向かう。
ーーさぁ、今日は、どんなことが起きるかな。楽しいといいな。
と、気合いを入れて、そろそろみんなの揃った教室に、いかにも、今登校しました、という顔をして入って行くのだ。
小説ジュニア
中学生の頃のわたしは、たいしたことはしていないのだけれど、こころのなかでは、それなりに、大人に対して尖っていた。
わたしが通っていた中学校には、校則らしい校則が無かったので、わたしは毎日、学生靴ではなく、ヒールの高い、会社員の人が履くような靴を履いて通学していた。相変わらず背が低かったから、でもある。それでも、先生がたから注意を受けたことは、一度たりともなかった。
一度だけ、下校の時に、先生に呼び止められて、「お前の靴、カッコいいな。」と言われたことはあった。 今思えば不思議な学校だったかもしれない。
そんなわたしは、「映画を観ること」にハマっていて、休日には、よく一人で、一日中名画座に入りびたっていた。当時の映画館は入替制ではなく、朝入ったら夕方までそのまま過ごすことが出来たので、気にいった映画は一日中観ていられたのだ。
一般には、中学生は、外出するときは制服で、しかも映画館などは保護者同伴で、という時代だった。街に出ると、学校の先生が見張っていて、「不良化」しないように、子供たちはチェックされていた。
が、わたしの学校はもちろんノーチェックだったので、わたしは自由に振る舞うことが出来た。もしも、映画館に一人で居ただけで先生に叱られていたら、逆に反抗心がもたげてきて、本当に「不良化」していたかもしれないと思う。
ありがたくも、放っておいて戴けたので、わたしは思う存分に映画を堪能出来た。映画を創る現場に行ってみたいなぁとか、漠然と考えていた。でも、情報のない、東北の田舎で、どうしたらそんな場所に行けるのか、全く見当もつかなかった。
そんな行き場のないおもいに焦りを感じながらも、解消する当てもないままに、わたしは、毎日学校に通い、ルーティンをそつなくこなしていた。
普段は、勉強に時間をとられ、小学生の頃のように、時間を忘れて読書する、などという贅沢も出来なくなっていたので、その頃のわたしは、専ら、時間が取られない「詩集」を読んでいた。「リルケ」、「シュトルム」、「千家元麿」「石川啄木」、「中原中也」などだ。
それでも、やはり、小説も読みたい。簡単に読めて、内容が濃いもの、自分が知りたいことが書かれているもの、という点から、わたしは、「小説ジュニア」を選んで、毎号買って読んでいた。
「小説ジュニア」を知ったのは、おそらく小学校六年生だったと思う。富島健夫の、「大人は知らない」という小説の題名にインパクトを受けて、書店で衝動買いをして、その連載をかかさずに読んだのがはじまりである。
ジュニア小説と呼ばれていたそのジャンルには、何人かの代表作家がいて、毎号、ジュニアの愛と性についての小説を競い合うように連載していた。
わたしは、どうにも行き場のない焦りを、「小説ジュニア」を読むことで、少しは解消していた。「小説ジュニア」に書かれていた様々な愛のかたちから、自分の将来の姿や、出会うべく男性を妄想したりしていたと思う。
そんなある日、学校の廊下で、わたしは、担任の先生から、
「お前さ、なんか、変わった雑誌を学校に持って来てるんだって?」と呼び止められた。
誰かが告げ口したのか、それとも、休み時間に読んでいるところを先生に見られたのか、わからないけれど、その当時、「小説ジュニア」は、内容が過激だということで、大人たちに嫌われていたので、変わった雑誌とは、「小説ジュニア」のことだな、というのは、ピンと来た。
「変わった雑誌ですか?」
「うん、小説なんとかっていう雑誌。」
ほら、やっぱり、そうだ。
「それさ、今日持ってる?」
「はい、持ってます。」
「じゃさ、あとで職員室に持って来て見せてくれる?」
「はい、わかりました。」
放課後、わたしは、くだんの「小説ジュニア」を持って、職員室に行った。わたしの学校は、礼儀だけはやたらに厳しくて、職員室に入る時の言葉かけは決まっていた。
「○年○組、○○、○○先生に用事があって参りました!入ってよろしいですか?」で、ある。この言葉かけを、背筋を伸ばして、直立不動で言わなければならないのだ。
しかしながら、それに対して、先生方は、仕事の手を休めることなく、ほんわかと、
「はい、どーぞー。」と言う。
言葉かけの雰囲気はめちゃめちゃ固いのに、先生方は限りなくゆるい。
わたしは、職員室に入ると、つかつかと、担任のもとに行った。そして、
「先生、この雑誌です。」と言いながら、「小説ジュニア」を差し出した。
先生は、「小説ジュニア」を手に取って、目次から読んでいる。しばらくして、
「なるほどなぁ。」
と、言った。
「これ、面白いね。」
「はい、そうなんです。」わたしも、少し緊張が解けて、そう答えた。
「なんかさ、雑誌が性教育みたいなことをしてる、っていうから、いっぺん読んでみたいって思ってたんだよなぁ。でもさ、こういう本て先生は買いにくいんだよ。お前が読んでるのが見えたからさ。ありがとな。」
ーーは?
なんということだ。先生が読んでみたかったなんて。。
わたしは、お礼を言ってくる先生から「小説ジュニア」を受け取ると、そそくさと教室に戻った。
あのとき、もし、先生に、
「お前は教室でなんという雑誌を読んでいるんだ!」などと叱られていたら、わたしの反抗心は天まで高く届いたことだろう。先生にお礼まで言われて、わたしは逆に笑ってしまった。
何度も言うけれど、わたしの学校は、校則もほとんど無くて、生活についての規制もほとんど無く、子供たちは、反抗するチャンスもなかったのかもしれない。いわゆる「不良」は、見たことがなかった。
だから、わたしも、こころのなかでは大人に対して尖っていたのだけれど、外に向かってまで尖って見せるチャンスはめぐって来なかったのだった。
演劇部
中学二年生の夏休みが終わったある日、わたしの教室に、三年生の、或る女子の先輩が訪ねてきた。
「○○さんている?」
先輩は、たしかにわたしの名前を呼んだ。
「はい、わたしですが。」
おそるおそる出て行くと、
「あ、あなたが○○さんなのね。
なんかさ、面白い子がいる、って聞いたもんだからさ。」
「面白い子って。。」
「わたしたちと一緒に演劇やらない?」
単刀直入に、先輩はそう言った。
そして、「演劇部」を創設したいのだけれど、先生方の、「演劇は危険だ。」という発想がそれを阻んでいるのだと、先輩は説明した。
「自分たちで演劇の上演を行なって、先生方にみてもらおうと思っているのよ。危険じゃないことを認めてもらうために。」
わたしについて、誰が、どんな噂をしていたのか、今もってわからないけれど、同じような毎日に、退屈しかしていなかったわたしは、その話に乗ってみることにした。
ーー面白そうだ!
やがて、先輩が各教室を回って集めてきたメンツが、放課後、音楽教室に集まった。たしかに、大変に個性的な面々だった。
全員が全員、独立独歩な感じで、自己主張が強かったけれど、それでも、「何か変わったことをしたい」というおもいは共通していたので、意外と協力しあえて、秋が終わる頃、わたしたちは、音楽教室で、放課後に、演劇の発表を行なうことが出来た。
でも、もう、何を演ったのか、題目さえ憶えていない。
ただ、楽屋もない音楽室で、一幕と二幕の転換時に、衣装替えが必要だったわたしは、なんと、音楽室の窓にかけてあるカーテンの中で、衣装替えをした!
その珍事だけは妙に印象深く憶えている。このときばかりは小さい自分に感謝したものだ。
みんなでポスターを作って、校内のそこら中に貼ったり、口コミを使ったりして、音楽室を満員に出来たことはうれしかった。
友だちはみんな、「面白かった!」と言ってくれた。先生方も、わたしたちの発表を評価してくれた。そして、今年度は無理でも、来年度は、演劇部の認可が降りるようにしてあげる、と約束してくれた。大成功だったのだ!
進学校に進学することだけが日々の目標になっていたような中学校時代だったけれど、「退屈な時間になんか負けるもんか!」という気概が、あのときのわたしたちにはたしかにあった。
残念なことに、わたしたちを募ったやり手の先輩は、その後は受験に専念して、東京の進学校に進学し、あっさりとわたしたちの前から消えた。
残されたわたしたちは、次の年度からは、有志の集団ではなく、認定された「演劇部」になった。文化祭で、先生の指導のもとに、普通に発表を行ない、みんな、普通に卒業した。
普通の演劇部も、それなりには面白かったけれど、あのやり手の先輩が君臨していた頃の、「ワクワク感」や、「どこかいたずらっぽい感じ」は、もう感じることは出来なかった。
「有志の集団であることのワクワク感」を、わたしに教えてくれたあの先輩は、「素敵な開拓者」だったなと今でも思う。
もう、名前さえ忘れてしまったけれど、お元気で活躍されていることを願ってやまない。